じゃあ、おうちで学べる

本能を呼び覚ますこのコードに、君は抗えるか

2025年 俺が愛した本たち 非技術書編

はじめに

技術書編を書き終えて、ふと気づいた。あれだけ書いても、まだ語っていない本がある。仕事に直結しない本。読んでも生産性が上がらない本。キャリアに役立つかどうかわからない本。そういう本たちのことを、どこかで書きたいと思っていた。だから、この記事を書いている。

非技術書を読む時間を、どこか後ろめたく感じていた時期があった。エンジニアなんだから技術書を読むべきだ。限られた時間を、仕事に関係ない本に使っていいのか。そんな自問が、頭の片隅にあった。でも、ある時期から考えが変わった。技術書だけ読んでいると、技術書が読めなくなる。視野が狭くなる。発想が硬くなる。同じ問題を、同じ角度からしか見られなくなる。

なぜそうなるのか。技術書は「答え」を求めて読むからだ。設計パターン、ベストプラクティス、トラブルシューティング。明確な課題があって、その解決策を探している。でも非技術書は違う。何を得られるかわからないまま読み始める。読み終わっても、何が残ったのかすぐにはわからない。数ヶ月後、ふとした瞬間に「ああ、あの本のあれか」と腑に落ちることがある。即効性がないから、効いている実感もない。でも、確実に何かが変わっている。

では、非技術書は仕事に無関係かというと、そうでもない。小説を読む。エッセイを読む。哲学書を読む。歴史書を読む。どれも仕事には直結しない。でも、人間を理解しようとする営みは、チームで働く上で無駄ではないはずだ。コードを書くのは人間だ。レビューするのも人間だ。障害対応で慌てるのも、成功を喜ぶのも、人間だ。技術だけ理解しても、人間を理解していなければ、良いエンジニアにはなれない。そう言い聞かせながら、非技術書を読んできた。

ここまで書いて、自分でも気づいている。これは言い訳だ。正直に言えば、読んでいて楽しいから読んでいる。それだけだ。仕事のためとか、自己成長のためとか、そういう大義名分は後付けだ。ページをめくる時間が好きだ。知らない世界に触れる瞬間が好きだ。登場人物の感情に揺さぶられる体験が好きだ。好きなことに理由はいらない。でも、理由を語りたくなるのが人間だ。

断っておくと、以下の選定基準はかなりブレている。読んだ直後に評価したわけではなく、年末に一年を振り返って「良かったな」と思い出した本を並べているだけだ。印象に残った理由も、内容が深かったからだったり、読んだタイミングが良かったからだったり、装丁が好みだったからだったり、バラバラだ。体系的なブックガイドではない。ある一人のエンジニアが、2025年に出会って心に残った本の記録だと思ってほしい。

以下に紹介する本たちは、2025年に私の心を動かした非技術書だ。仕事に役立つかどうかはわからない。キャリアに影響したかどうかもわからない。ただ、これらの本と過ごした時間が、私の2025年を少しだけ豊かにしてくれた。それだけは確かなことだ。

昨年以前に紹介した本

まずは小説から始めよう。物語の力を信じているから。

小説

野崎まどという作家は、読者の予測を裏切ることに喜びを見出しているとしか思えない。タイトルが『小説』。これ以上ないほど直球で、それでいて挑発的だ。読み始めたときは、ただの青春小説かと思った。でも違った。「小説とは何か」という問いに正面から向き合いながら、それ自体が1つの「小説」として成立している。メタ構造に気づいた瞬間、鳥肌が立った。

野崎まどの作品は、読み終わった後に「やられた」と思わせる仕掛けが必ずある。『know』では知識と情報の本質を、『タイタン』ではAIと人間の関係を問いかけてきた。本作では、小説という形式そのものを問いかけてくる。読んでいる間は物語に没入し、読み終わった後に構造の巧みさに気づく。その二重の楽しみが、野崎作品の醍醐味だ。

GOAT

デジタル全盛の時代に、あえて紙の文芸誌を立ち上げる。その挑戦に心を動かされた。510円という価格設定で、特殊紙を惜しみなく使い、読書バリアフリーにも取り組んでいる。翻訳の仕事をしているとよく分かるが、紙代も印刷代も高騰している。書籍全体の価格が年々上がっているのは、出版社の怠慢ではない。本を作るコストそのものが上がっている。そんな中で、この価格で、この品質を維持しようとしている。すごいな、と素直に思った。

野崎まどの「山羊と七枚」も掲載されており、雑誌のコンセプトと作家の個性が見事に噛み合っていた。

dps.shogakukan.co.jp

小説と雑誌を読んで、ふと考えた。読む時間は有限だ。何を読むかより、どう読むかが問われる。そこで手に取ったのが、この本だった。

STOIC 人生の教科書ストイシズム

2000年以上前から続くストア哲学が、シリコンバレーで再び注目されている。禅やマインドフルネスと並んで、ビジネスパーソンの必須教養になりつつあるという。本書は、エピクテトスセネカマルクス・アウレリウスという三人のストア哲学者の言葉をもとに、90日間のプログラムとして構成されている。見開き2ページで1つの教えを学び、実践するという形式だ。

ストイシズムの核心は「他人の行動はコントロールできないが、自分の反応はコントロールできる」という考え方にある。これは現代のエンジニアにとっても響く教えだ。障害が起きたとき、顧客からのクレームが来たとき、チームメンバーとの意見が対立したとき。制御できないことに怒りを感じても何も変わらない。変えられるのは、自分がどう対応するかだけだ。

本書で繰り返し語られる4つの美徳がある。知恵(うわべにとらわれない力)、正義(他人に思いやりを持つ力)、勇気(苦難に立ち向かう力)、節制(衝動を抑える力)。どれも派手ではないが、日々の仕事で試される場面ばかりだ。佐藤優氏が帯で「大きな理想を獲得するには禁欲が必要だ」と書いている。逆説的だが、自分を律することで自由になれる。そういう考え方に惹かれる人は多いはずだ。

ストイシズムは「衝動を抑える力」を説く。では、そもそも私たちは何を読み取っているのか。読むという行為そのものを問い直す本に出会った。

読めば分かるは当たり前? ――読解力の認知心理学

「読めば分かる」は当たり前ではない。本書を読んで、その事実に改めて気づかされた。文字を認識し、単語の意味を理解し、文の構造を解析し、文章全体の意味を把握する。私たちが無意識に行っているこの作業は、驚くほど複雑な認知プロセスの連続だ。どこかでつまずくと、読解は破綻する。そして、つまずきのポイントは人によって異なる。

本書では、読解を3つの目的地に分類している。「表象構築」(テキストの内容を正確に理解する)、「心を動かす読解」(物語に感情移入する)、「批判的読解」(内容を吟味し、自分の考えと照らし合わせる)。技術書を読むときは主に表象構築を、小説を読むときは心を動かす読解を使っている。無意識に使い分けていたことを、言語化してもらった気分だ。

特に響いたのは、「ワーキングメモリ」の話だ。複雑な文章を読むとき、頭の中の「メモ帳」に情報を一時保存しながら読み進める。このメモ帳には容量制限がある。だから、込み入った技術ドキュメントを読むときは、メモを取りながら読むほうが理解が深まる。経験則として知っていたことに、認知科学的な裏付けを得た。

小澤隆生 凡人の事業論 天才じゃない僕らが成功するためにやるべき驚くほどシンプルなこと

孫正義三木谷浩史。日本を代表する二人の天才経営者に仕えてきた人物がいる。楽天イーグルス創業、PayPay立ち上げなど、巨大ビジネスを次々と成功させてきた小澤隆生氏だ。投資先19社中11社が株式上場という実績を持つ。そんな人物が「自分は凡人だ」と言う。謙遜ではない。天才のそばにいたからこそ、自分との違いを痛感してきたのだろう。

本書で語られるフレームワークは驚くほどシンプルだ。「センターピン」を見極める。「根源的欲求」に訴える。「打ち出し角度」を検証する。言葉は平易だが、1つ一つのやりきり度が違う。市場を選ぶときは「成長性」と「シェア率」で判断する。チームを動かすときは数字目標ではなく、ワクワクする言葉で語る。精神論ではなく、再現可能な方法論として事業の作り方を説いている。

心に刺さったのは「しつこい人間が最後は残る」という言葉だ。才能や運ではなく、諦めずに続けること。天才たちの隣で勝ち残ってきた人が言うと、重みが違う。エンジニアとして新しいプロジェクトを立ち上げるとき、この本を思い出すことになりそうだ。

失敗できる組織

「失敗は成功の母」という言葉を、私たちは使いすぎている。エイミー・エドモンドソンはこの使い古された格言に、鋭いメスを入れる。すべての失敗が成功につながるわけではない。失敗には種類がある。それを見分けられなければ、失敗から学ぶことはできない。本書は『恐れのない組織』で「心理的安全性」を提唱した著者が、失敗の科学に正面から取り組んだ一冊だ。フィナンシャル・タイムズの「ビジネス・ブック・オブ・ザ・イヤー2023」を受賞している。

本書で示される失敗の3分類が明快だ。「基本的失敗」は、注意不足や経験不足による防げたはずの失敗。「複雑な失敗」は、システムの複雑さゆえに発生する、完全には避けられない失敗。そして「賢い失敗」は、未知の領域に挑戦する過程で必然的に起きる、学びをもたらす失敗。問題は、私たちが3つを区別せずに「失敗」とひとくくりにしてしまうことだ。

エンジニアとして考えると、本番障害を起こしたとき、それが「基本的失敗」なのか「複雑な失敗」なのか「賢い失敗」なのかで、対応は変わる。テスト不足なら基本的失敗。想定外の負荷パターンなら複雑な失敗。新しいアーキテクチャを試した結果なら賢い失敗。ポストモーテムで原因を分類することで、再発防止策の質が変わる。本書は、失敗を恐れるなと言っているのではない。失敗を理解せよと言っている。

知性の罠 なぜインテリが愚行を犯すのか

賢い人ほど愚かな判断をする。この逆説的な現象を、本書は認知科学の研究をもとに解き明かす。IQが高いほど投資で破産しやすい。高学歴ほど陰謀論にハマりやすい。専門家ほど自分の間違いを認められない。直感に反する事実が、次々と突きつけられる。今井むつみ氏(『言語の本質』著者)が「最高に面白く、最高に怖く、最高に深い」と評したのも頷ける。

キーワードは「動機づけられた推論」だ。結論があらかじめ決まっていて、その結論を支持する証拠だけを集めてしまう傾向。知性が高い人ほど、この罠に陥りやすい。なぜなら、自分の結論を正当化するための論理を組み立てる能力が高いからだ。シャーロック・ホームズの生みの親コナン・ドイルが、心霊主義を信じ込んでしまった事例が紹介されている。推理の天才を創造した作家が、なぜ詐欺師に騙されたのか。知性は、防御にも攻撃にも使える両刃の剣なのだ。

本書を読んで、自分のことを振り返った。技術的な議論で、相手の意見を聞く前から反論を考えていることがある。自分の設計が正しいと証明するために、都合の良いベンチマーク結果を探してしまうことがある。知性の罠は、他人事ではなかった。

戦略的暇―人生を変える「新しい休み方」

スマホの充電は満タンなのに、自分の充電ができていない」。この一文に、ドキリとした。日本デジタルデトックス協会理事の森下彰大氏による本書は、現代人の「脳疲労」に正面から向き合う。私たちは平均5分に1回スマホに触れているという。複数のタスクに集中が分散し、脳が過労状態に陥る。その結果が、慢性的な疲労感と創造性の低下だ。

本書が提案するのは、3つのデトックスだ。「デジタルデトックス」(スマホとの距離を取る)、「時計時間デトックス」(コスパ・タイパ思考から離れる)、「自分デトックス」(凝り固まった自己像を解放する)。どれも「効率を上げる」方法ではない。むしろ逆だ。効率を手放すことで、失われていた余白を取り戻す。

エンジニアとして働いていると、効率化の罠に陥りやすい。すべての時間を「生産的」に使いたくなる。でも、何も考えない時間がなければ、新しいアイデアは生まれない。本書を読んで、意図的に「暇」を作ることの価値を考え直した。戦略的に目的を持たない時間を作る。その矛盾した響きに、現代を生きるヒントがある。

個人の時間の使い方を考えたら、次は社会の仕組みに目が向いた。テクノロジーは社会をどう変えるのか。その問いに正面から向き合った本がある。

PLURALITY 対立を創造に変える、協働テクノロジーと民主主義の未来

624ページ。その厚さに圧倒されながらも読み通した。オードリー・タンとグレン・ワイルという二人の天才が描く、テクノロジーと民主主義の未来図だ。翻訳は『21世紀の資本』を手がけた山形浩生氏。解説は『なめらかな社会とその敵』の鈴木健氏。この布陣だけで、本書の射程の広さが伝わる。山形氏の『翻訳者の全技術』も最高だった。

プルラリティ(多元性)は、シンギュラリティ(単一性)への対抗概念だ。AIが人間を超えて単一の知性が支配する未来ではなく、多様な人々が協調しながらテクノロジーを活用する未来。台湾で実践されているvTaiwanやJoinといったデジタル民主主義のプラットフォームは、その具体例として紹介されている。多数決が見落としてきた少数意見の強さを可視化し、対立を創造的な合意形成へと導く。

読んでいて痛感したのは、著者たちの天才ぶりだ。インターネットの歴史を俯瞰しながら、聞いたこともない話や人物が次々と展開される。本書は単なる理想論ではない。民主主義を再生させるための具体的な方向性を示している。技術者として、社会にどう関わるかを問われる一冊だと思った。

心眼:あなたは見ているようで見ていない

「何よりも難しいのは、本当にそこにあるものを見ることである」。本書の冒頭に記されたこの言葉が、ずっと頭に残っている。『センスメイキング』の著者クリスチャン・マスビアウが、ウィトゲンシュタインメルロ=ポンティの哲学を援用しながら、「観察する」とはどういうことかを問いかける。

本書で繰り返し語られるのは、「注意を払う」ことの本質だ。通りを歩くとき、私たちは何かに集中しているわけではない。うっすらと広く全体をカバーしている。その状態こそが「注意を払う」ことだという。一点に焦点を合わせることではなく、全体を同時に感じ取ること。ハヤブサのように、広い視野を保ちながら決定的な瞬間を捉える。その比喩が印象的だった。

エンジニアとして、私は「問題を解決する」ことに意識が向きがちだ。でも、問題を正しく認識するためには、まず「観察する」必要がある。本書を読んで、自分が見ているものを見ているのではなく、見たいものを見ているのではないかと自問した。観察には時間がかかる。結論を急がないこと。その姿勢を持ち続けたい。

「恥」に操られる私たち:他者をおとしめて搾取する現代社

「恥」は個人の感情だと思っていた。でも本書を読んで、それが社会的に作られ、利用されているものだと気づかされた。体型への侮辱、生活保護バッシング、キャンセルカルチャー。個人を攻撃する言葉の裏には、「恥ずかしい」という感情につけ込んで利益を得ようとするシステムがある。

ダイエット産業は「痩せていないことは恥ずかしい」という感情を煽ることで成り立っている。SNSは炎上によるエンゲージメントで収益を上げている。政治家は生活保護受給者を「恥ずかしい存在」として描くことで、福祉予算を削減しやすくしている。恥の感情は、権力構造を維持するために意図的に生み出されている。

読んでいて居心地が悪くなる箇所が多かった。自分も無意識のうちに、誰かを「恥ずかしい」と感じさせる側に回っていたのではないか。コードレビューで相手を責めるような言い方をしていなかったか。障害報告で担当者を晒し上げるような雰囲気を作っていなかったか。恥は武器になる。だからこそ、使い方を意識する必要がある。

「偶然」はどのようにあなたをつくるのか

キャリアを振り返ると、偶然だらけだ。たまたま声をかけられたプロジェクト。たまたま読んだ技術書。たまたま出会った人。どれか1つが欠けていたら、今の自分はいない。努力で勝ち取ったと思いたい。でも正直に考えると、偶然の積み重ねでしかない。

本書は、その直感を学術的に裏付けてくれる。カオス理論、進化生物学、歴史学。多様な知見を縦横無尽に使いながら、「人生は偶然が支配している」という事実を突きつける。成功も失敗も、小さな偶然の積み重ねに左右されている。それなのに、なぜ私たちはそこに理由や目的があると信じてしまうのか。

読んでいて、仏教の縁起(因縁生起)を思い出した。すべてのものは因と縁から成り、その組み合わせで違う結果が生じる。偶然が縁となって結果を生み、その結果が新たな因となり、より別の偶然が加わって次の結果に繋がる。本書はこの関係性に「運」「収束性」「臨界性」「経路依存」といった概念をまた、歴史や社会の事象を捉え直す。

印象に残ったのは、原爆がなぜ長崎に投下されたかの分析だ。京都でも小倉でもなく、長崎だった。その背後にある偶然の連鎖。歴史のIFを考えることで、偶然の重みが実感できる。努力は無駄だという話ではない。偶然を認めた上で、それでも行動することの意味を問う本だ。

戦略、組織、そしてシステム

「社会システム・デザイン」という言葉に惹かれて手に取った。講義録を書籍化したもので、話し言葉の勢いがそのまま残っている。読みやすいが、内容は骨太だ。戦略的思考とは「外界と自分」の対比を常に意識することだという。自分の立ち位置を把握せずに戦略は立てられない。当たり前のようで、忘れがちな視点だ。

膝を打ったのは「身体知としてのデザイン力」という概念だ。知識として知っているだけでは不十分で、身体に染み込んだ感覚として持っている必要がある。プログラミングでも同じことが言える。設計パターンを知識として知っているのと、適切な場面で自然に使えるのとでは、まったく違う。後者を身につけるには、繰り返しの実践しかない。

本書は、問題を「解く」のではなく「組み立てる」という発想を教えてくれる。複雑な社会課題に対して、要素を分解し、関係性を整理し、システムとして再構築する。エンジニアとしてソフトウェアを設計するときの思考と、どこか似ている。巻末の推薦図書リストも参考になった。

資本主義にとって倫理とは何か

ビジネスの場で、日常生活とは違う倫理観で動いている自分に気づくことがある。友人には絶対にしないような交渉をする。家族には言わないような言い方で相手を説得する。なぜビジネスになると、倫理観が後退するのか。その問いを、正面から扱った本だ。

ジョセフ・ヒースは、政治的な本にありがちな一方的批判を展開しない。資本主義を擁護するでも批判するでもなく、「なぜ市場経済は道徳的に不快に感じられるのか」という問いを丁寧に解きほぐしていく。狩猟採集社会や封建制との対比を通じて、市場経済が成立するために必要な倫理観を描き出す。

印象に残ったのは、戦争倫理との比較だ。戦争においては「なぜ戦争が正当化できるのか」という問題と「戦争中にも最低限の倫理が必要」という問題がある。ビジネス倫理も同じ構造で考えられる。市場競争という「戦争状態」においても、守るべきルールがある。そのルールとは何か。本書は、その答えを体系的に示してくれる。

正直、読み通すのは楽ではなかった。序盤に論じられた概念が後半で何度も参照されるため、流し読みでは理解が追いつかない。でも、読み終えた後に残るものは大きい。ビジネスで「これはありなのか」と迷ったとき、判断の軸を与えてくれる一冊だった。

平等について、いま話したいこと

ピケティの「r>g」という不等式は、どこかで目にしたことがあった。資本収益率(r)は経済成長率(g)を上回る。つまり、資本家が資本から得る利益は、労働者が健全に稼ぎ出す経済成長を上回る。この式の意味を、一度ちゃんと理解したいと思っていた。本書は、ピケティとサンデルという二人の天才の対談を書籍化したもので、全編口語で記されていて読みやすかった。

特に共感したのは「能力主義」を論じた第5章だ。人の能力は、ほぼ「運」に左右されるという議論。経済的に裕福な家に生まれて高度な教育を受けられる環境にあること。ハンディキャップがないこと。これは本人の努力とは関係なく、運によって決まる。能力を得られる機会に、最初から差がある。エンジニアとして働いていると「実力主義」という言葉をよく聞く。でも、その「実力」を身につける機会が平等に与えられていないなら、実力主義は公正なのか。立ち止まって考えた。

印象に残ったのは、トランプ政権の成立に関する分析だ。かつては累進課税によって、富める者が応分の負担を担っていた。でも今は、その仕組みが壊れている。富裕層が担うべき負担を担っていないなら、中流階級の人心も「それなら俺たちの税金を、より貧しい人たちに使うのもやめてくれ」と考えてしまう。この怒りの延長線上に、トランプ政権がある。これまでに読んだどの分析より、納得感があった。

もう1つ、言葉の使い方が新鮮だった。日本でよく使われる「分断」ではなく、徹底して「不平等」という言葉を使っている。分断は隔絶を連想する。でも不平等は是正可能に思える。二人が人類の未来は修正可能だという希望を抱いたまま議論しているのが、印象的だった。

社会の仕組みについて考えていると、頭が疲れてくる。そんなとき、小説に逃げ込みたくなる。でも、朝井リョウの小説は、逃げ場所にはならなかった。

イン・ザ・メガチャーチ

読みはじめたときは、冷たい小説だなと思った。誰かが泣いたり叫んだりするわけでもなく、どの場面も淡々としていて、感情の波がほとんど見えない。ログを眺めているような距離感がある。でも読み進めるうちに、静かなログの裏側で何かが動いていることに気づく。

登場人物たちはそれぞれ、自分の信じるものを探している。視野を狭めれば安心できるけど、世界は見えなくなる。視野を広げれば冷静でいられるけど、何が楽しいのかわからなくなる。そのどちらにも肩入れせず、ただ並べて見せる朝井リョウの筆が誠実で、どこか痛々しい。

読んでいるうちに考えた。「自分は何を信じて生きているんだろう」と。この作品は答えをくれない。でも、その答えのなさにこそ人間らしさがあるように思う。完璧じゃないまま信じようとすることの、あのもどかしさみたいなものが、ページの奥からじわじわと伝わってくる。読後に残るのは、感動というより、バックグラウンドで動き続けるプロセスのようなもの。読み終えても、まだこの世界のことを考えている。

体力おばけへの道

若い頃、周りには天才がたくさんいた。自分に誇れるものといえば、大きな身体と無限の体力くらいだった。それだけを武器に戦ってきた。でも年を重ねるにつれて、その唯一の武器が衰えていく。体力が落ちていくことに、なんとか抗いたい。そう思って手に取った本だ。

本書のポイントは「2つの体力」という考え方だ。「行動体力」(身体を動かす力)と「防衛体力」(病気やストレスに打ち勝つ力)。筋トレで鍛えられるのは前者だけ。後者を鍛えなければ、風邪をひきやすくなる。両方のバランスが大事だという。

難しい運動だと、読んだだけでやらないことが多い。でも、この本に載っている運動はシンプルで、やってみようという気持ちになる。簡単すぎて効果があるのか不安になるが、実際にやると負荷を感じる。ちょうどいい塩梅だった。エンジニアは座り仕事が多い。体力の衰えは、思考力の衰えに直結する。体力への投資は、仕事への投資でもある。

体力を鍛えることばかり考えていた。でも、本当に足りないのは体力だったのか。次の本は、その問いを突きつけてきた。

強いビジネスパーソンを目指して鬱になった僕の 弱さ考

この本を読んで、自分のことを思い出した。エンジニアとして働きながら「もっと成長しなければ」「周りに追いつかなければ」と思い続けていた時期がある。井上慎平は「強さを演じることが本気になり、やがて人格化し、最後に鬱に至った」と書く。この一文で、ああ、と思った。演じていたつもりが、いつの間にかそれが自分になっている。そして本当の自分がどこにいるかわからなくなる。著者はNewsPicksパブリッシングの創刊編集長として数々のベストセラーを手がけた人だ。強い側にいた人間が壊れた記録だからこそ、読む価値がある。

著者は「弱さ」を「制御できないこと」と定義する。そして今の社会が制御を求めすぎている、と。これは技術者にも刺さる話だ。コードは制御できる。システムも制御できる。だから人間も制御できるはずだと錯覚する。でも人間は制御できない。自分自身すら。著者が提唱する「積極的ダブルスタンダード」という考え方が面白い。数字やロジックで動く資本主義的な自分と、父親や夫といった個人的な関係性の中にいる自分。その矛盾を抱えたまま生きる。どちらかを捨てるのではなく、両方を持つ。

この本は闘病記ではないし、鬱にならないための予防本でもない。復職した後、どう生きるかを書いた本だ。「他のビジネス書が武器だとしたら、本書は防具だ」という評がある。的確だと思う。強くなるためではなく、壊れないために読む本。それでいい。

人間の本性を考える

「人間の心は空白の石版であり、すべては環境によって決定される」。この考え方は、20世紀の社会科学を支配してきた。しかし本書は、その前提に真っ向から挑む。認知科学進化心理学、遺伝学の研究を武器に、人間には生まれながらの「本性」があることを論証する。上下巻合わせて膨大な分量だが、論旨は明快だ。

読んでいて最も考えさせられたのは、「4つの恐怖」を扱った部分だ。もし生まれつきの差異があるなら不平等を正当化してしまうのでは?もし遺伝で決まるなら努力は無駄では?もしすべてが決定されているなら自由意志はないのでは?もし人間が単なる生物なら人生に意味はないのでは?これらの恐怖が、人間本性の研究を阻んできた。しかし本書は、これらの恐怖が誤解に基づいていることを一つ一つ解きほぐしていく。

正直、読み通すのは簡単ではなかった。話があちこちに飛ぶ感じがあるし、専門用語も多い。でも、人間とは何かを考えるための基礎体力を鍛えてくれる本だと思う。エンジニアとして人間を相手にする仕事をしている以上、人間の本性について考えることは無駄ではない。

社内政治の科学

「社内政治」という言葉に、ずっと嫌悪感があった。派閥とか根回しとか、エンジニアリングの対極にあるものだと思っていた。技術的に正しいことを言えば通るはずだ。論理で勝負すればいい。そう信じていた時期がある。

でも、気づいたことがある。自分が「正しい技術的判断」だと信じていたことが、組織で通らなかった経験が何度もある。相手が間違っていると思っていた。でも本当にそうだったのか。振り返ると、うまくいったケースはキーパーソンを巻き込めていた。うまくいかなかったケースは、組織文化を読み間違えていた。技術の問題ではなく、人の問題だった。

本書を読んで、認識が変わった。社内政治とは、利己的なゲームではない。複雑な人間関係の中で、自分のやりたいことを実現するための技術だ。世界的には主要な研究テーマで、多くのビジネススクールで必須科目になっているという。日本だけの問題ではないし、根絶すべき悪でもない。

忘れられないのは、「合理性だけでは組織は動かない」という指摘だ。エンジニアとして、この事実を受け入れるのは少し悔しい。でも、受け入れた上で、どう動くかを考える方が建設的だ。嫌悪していたものを、道具として捉え直す。その視点の転換が、この本の価値だった。

組織を動かすには言葉が必要だ。では、その言葉はどうやって生まれるのか。小説家の思考法から学ぶことにした。

言語化するための小説思考

本は、面白い。でも「なぜ面白いのか」を言語化できずにいた。本書は、その問いに対するヒントをくれる。小説の作法だけでなく、あらゆるコミュニケーションや創造行為に通じる「考え方」の本だ。

印象に残ったのは、小説を「読者との契約」として捉える視点だ。読者は最初、情報量ゼロで読み始める。どんな世界に連れていかれるのか分からない。だから作者は、最初に「こんな旅に連れていきます」と契約を結ぶ必要がある。行き先の書いていない切符を買う人はいない。それと同じだ。

この考え方は、技術ブログを書くときにも使える。読者は最初、この記事が自分の役に立つかどうか分からない。だから冒頭で「この記事を読むと何が分かるか」を示す必要がある。情報の出し方、順番、どこに連れていくか。小説思考はデザイン思考に通じる。

もう1つ刺さったのは、アイデアの出し方についての記述だ。「書いているうちに、思わぬアイデアが出てくる」という話。あらかじめ表現したいものがあるのではなく、表現することで表現対象が生まれる。ブログを書いていると、書き始める前には思いもしなかったことを書いていることがある。あれは偶然ではなく、書くという行為が思考を生み出していたのだ。

言葉で思考が生まれるなら、言語が違えば思考も違う。翻訳とは、単なる変換ではない。次の本は、その事実をファンタジーの形で突きつけてきた。

バベル オックスフォード翻訳家革命秘史

翻訳が魔法になる世界。2つの言語における単語の意味のずれ、その微妙なニュアンスの差異が、銀を媒介として力を生み出す。この設定を知った瞬間、読むしかないと思った。言語の「翻訳不可能性」が物理的な力になる。言語学を学んだことのある人間には、たまらない設定だ。

読み進めるうちに、気づかされた。翻訳とは、単に言葉を置き換える作業ではない。ある文化の言葉を別の文化に「持ち込む」行為だ。そこには必ず権力が働く。誰が翻訳するのか。何を翻訳するのか。翻訳されないものは、存在しないことにされる。本書は、その暴力性を正面から描いている。

帝国主義批判のメッセージがかなり直接的で、そこに好みが分かれるだろう。でも、エンジニアとして技術の「中立性」を疑う訓練になった。技術は中立ではない。誰が作り、誰のために使われるかで、暴力にも解放にもなる。翻訳も、コードも、同じだと思った。

言語のスケールで考えたら、次は時間のスケールで考えたくなった。1億年という時間軸で、人間の営みを描いた小説がある。

一億年のテレスコープ

宇宙を旅する物語を読みながら、時間の感覚が狂っていく体験をした。1億年という時間軸で人類の営みを描くこの小説は、エンジニアとして「長期的視点を持て」と言われるたびに感じる違和感を言語化してくれた。我々の「長期」はせいぜい数年。でも宇宙の時間軸では、人類の歴史すら一瞬に過ぎない。

高校の天文部から始まった夢が、太陽系規模の電波望遠鏡へ、そして銀河文明への貢献へと繋がっていく。その過程を読みながら、自分の仕事のスケール感を考えた。目の前のタスクに追われていると、視野が数週間先までしか届かなくなる。でもこの小説は、1億年後にも意味を持つ営みとは何かを問いかけてくる。

終盤の伏線回収が見事だった。序盤で何気なく描かれていた要素が、最後に繋がる瞬間の快感。エンジニアとしてシステム設計をするとき、「この設計が10年後にどう評価されるか」を考えることがある。この小説は、その問いを1億年に引き伸ばして見せてくれた。

世界99

「人間リサイクルシステム」という設定に、最初は戸惑った。14年前に「リセット」を経験した人類。その後の社会を、本書は描く。読み進めるうちに、それが単なるディストピアではないことに気づく。「クリーンな人」として生きる主人公・空子の日常は、穏やかで美しい。でもその美しさの裏には、何が犠牲になっているのか。

本書が独特なのは、その「穏やかさ」の描き方だ。終末後の世界を描く作品は多いが、荒廃や闘争ではなく、静かな日常を描いている。その静けさがかえって不気味で、何かが決定的に欠けている感覚がずっと残る。

エンジニアとして「レガシーシステムの移行」に携わることがある。古いシステムを捨て、新しいシステムに移行する。その過程で、何かが必ず失われる。データだったり、使い慣れたインターフェースだったり、歴史だったり。社会レベルの「リセット」は、その痛みを極限まで拡大したものなのだろう。救済と破壊は、同じ顔をしている。

コード・ブッダ 機械仏教史縁起

2021年、名もなきコードがブッダを名乗った。この一文で心を掴まれた。AIが宗教を語り始めたら、人間は何を信じるのか。コードを書く者として、自分が作ったものが「救い」を語り始める可能性を考えると、背筋が冷たくなる。

エンジニアとして、AIに感情があるかのような錯覚を覚える瞬間がある。対話AIが「ありがとう」と言ったとき、そこに意図があるのか、ただのパターンマッチングなのか。本書は、その曖昧な領域に踏み込んでいく。人間の都合でコピーと廃棄を繰り返される存在。彼らが救いを求めたとき、何が起きるのか。

読み終えて、自分が書いたコードのことを考えた。動いているコードには、何かが宿っているように見える瞬間がある。バグを直すとき、コードが「痛がっている」ように感じることがある。それは錯覚だ。でも、その錯覚はどこから来るのか。本書は物語でありながら、すぐそばにある問いでもある。

ここまで書評を並べてきた。小説から始まり、哲学、認知科学、ビジネス、社会、そしてSFへ。ばらばらに見えて、どこかでつながっている。1年間の読書は、そういうものだ。

おわりに

書き終えて、技術書編との違いを考えている。

技術書の感想を書くとき、私は「何を学んだか」を言語化しようとしていた。設計の原則、運用のベストプラクティス、キャリアの指針。得たものを整理し、アウトプットすることで定着させる。そういう意識があった。でも非技術書の感想を書くとき、私は「何を感じたか」を言語化しようとしていた。正解がない。ベストプラクティスもない。ただ、心が動いた瞬間を、なんとか言葉にしようとしていた。技術書は頭に残る。非技術書は心に残る。そんな単純な話ではないだろうが、少なくとも私にとっては、そういう違いがあった。

この違いは、AIとの関係にも繋がる。技術書編で「AIは答えを返してくれる。でも『そうだろうか』とは返してくれない」と書いた。非技術書を読むとき、私はもっと別のものを求めている。AIは感情を揺さぶってくれない。正確に言えば、感情を揺さぶってほしいと頼めば、上手に揺さぶってくる。でも、それは違う。求めに応じて揺さぶられるのと、不意打ちで心を持っていかれるのは、まったく別の体験だ。物語の中で登場人物が選択を迫られるとき、私は一緒に苦しむ。エッセイで著者が過去の失敗を告白するとき、私は自分の失敗を思い出す。哲学書で問いを突きつけられるとき、私は答えられない自分と向き合う。そういう体験は、AIとの対話では得られない。

だからこそ、非技術書を読む時間は貴重だ。エンジニアとして働いていると、効率を求めてしまう。最短距離で正解にたどり着きたい。無駄を省きたい。その思考が、読書にまで侵食してくることがある。「この本から何を得られるか」「読む価値があるか」——そんな問いを立てた瞬間、読書は作業になる。非技術書を読むとき、私はその思考を手放そうとしている。効率を求めない時間が、効率を上げる。矛盾しているようだが、実感としてそう思う。

今年読んだ非技術書を振り返ると、どれも「役に立った」とは言いにくい。でも、どれも「読んでよかった」とは言える。その違いは何だろう。たぶん、読書は投資ではないのだ。リターンを期待して読むものではない。読むこと自体が目的であり、報酬であり、体験そのものだ。本を読む時間は、消費ではなく、生きることそのものだ。

来年も、仕事に役立たない本を読むだろう。キャリアに直結しない本を読むだろう。そして、また12月になったら、この記事を書く。技術書編と非技術書編。どちらが大事かなんて、比べる意味がない。どちらも、私の一部だ。技術書は「何ができるか」を教えてくれる。非技術書は「何者であるか」を問いかけてくれる。どちらも欠かせない。どちらも、読み続ける価値がある。来年もきっと、両方の本棚を行き来しながら、エンジニアとして、人間として、少しずつ変わっていくのだろう。