はじめに
「おい、がんばるな」という言葉を書いた。あの文章を読み返して、私は少し後悔している。
言いたいことは分かる。がむしゃらに頑張ることが思考停止になる。忙しさが逃避になる。持続可能性が大事だ。それは正しい。私も経験してきたことだ。でも、あの文章には、書かなかったことがある。書けなかったことがある。「頑張らなくていい」という言葉が、どれほど危険な響きを持っているか。その言葉が、どれほど簡単に、怠惰の免罪符になってしまうか。
私は「頑張るな」と言った。でも、それを読んだ人の中に、こう受け取った人がいるだろう。「そうか、頑張らなくていいんだ」「無理しなくていいんだ」「今のままでいいんだ」と。もしそう受け取った人がいたら、それは私の責任だ。だから、今日は別のことを書く。
「おい、努力しろ」
これは、あの文章への補足ではない。あの文章への反論だ。「頑張るな」という言葉の危うさを、私は書かなければならない。そして、「頑張ること」と「努力すること」の違いを、もっと正確に伝えなければならない。あの文章で私が本当に言いたかったのは、「頑張るな」ではなかった。「考えずに頑張るな」だった。でも、その「考えずに」という部分が抜け落ちて伝わってしまったら、メッセージは正反対になる。
「頑張らなくていい」は、時に正しい。でも、多くの場合、それは逃げだ。そして、私たちが本当に必要としているのは、「頑張らないこと」ではない。「正しく頑張ること」——つまり、努力することだ。
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「頑張らなくていい」という甘い毒
「頑張らなくていい」という言葉は、優しく聞こえる。疲れ果てた人に、「もう頑張らなくていいよ」と言う。それは、救いの言葉だ。本当に限界に達している人には、その言葉が必要なときもある。でも、問題がある。この言葉は、本当に限界の人だけでなく、まだ余力がある人にも響いてしまうということだ。
なぜか。人間は、楽な方に流れる生き物だからだ。これは誰もが持っている性質であり、責めるべきことではない。ただ、事実としてそうなのだ。「頑張らなくていい」と言われれば、「そうか、頑張らなくていいのか」と受け止める。そう感じること自体は自然だ。誰だって、許可があれば楽な方を選びたくなる。そして、頑張ることをやめる。でも、本当に頑張らなくてよかったのだろうか。
ここで、正直に自分に問いかけてみてほしい。「頑張らなくていい」という言葉を聞いて、ホッとした時のことを思い出してほしい。その時、自分は本当に限界だっただろうか。本当に、これ以上一歩も進めない状態だっただろうか。体が動かない、頭が働かない、そういう状態だっただろうか。それとも、まだやれるのに、やらない言い訳を探していただけではなかっただろうか。
私は、後者だったことが何度もある。疲れていた。それは本当だ。でも、限界ではなかった。もう少しやれば、もう少し先に進めた。「頑張らなくていい」という言葉が、私に許可を与えた。やめていい許可を。そして、私はやめた。その時は楽になった。肩の荷が降りた。「これでいいんだ」と感じた。でも、後から振り返ると、あの時やめなければよかったと後悔することがある。あと少し踏ん張っていれば、違う景色が見えただろう。あと少し続けていれば、突破口が開けただろう。
「頑張らなくていい」は、甘い毒だ。本当に必要な人には薬になる。限界を超えて壊れそうな人には、その言葉が命を救うこともある。でも、必要でない人が飲むと、毒になる。成長の機会を奪い、可能性を閉じてしまう。そして、厄介なことに、自分が「本当に必要な人」なのかどうかは、自分では分からない。なぜなら、人間は自分に甘いからだ。自分の限界を、実際より低く見積もる傾向があるからだ。
だから、この言葉は慎重に使わなければならない。そして、この言葉を聞いた時は、慎重に受け取らなければならない。「私は本当に限界なのか、それとも、逃げているだけなのか」。この問いから、逃げてはいけない。いまの自分にとって「頑張らなくていい」という言葉は、薬なのか、あるいは都合のいい麻酔なのか。その区別ができるのは、自分だけだ。誰かの優しさを、自分への甘さにすり替えるな。
量をこなすことでしか見えないもの
「甘い毒」の話をしてきた。次は、もう少し具体的な話をしたい。「量」の話だ。
「おい、がんばるな」という文章で、私は「がむしゃらは若さの特権だ」と書いた。そして、「30歳からは戦略が必要だ」と書いた。これは、半分正しくて、半分間違っている。確かに、がむしゃらに量をこなすだけでは、どこかで限界が来る。効率を考えず、方向性を考えず、ただ時間を投入するだけでは、成果は出ない。それは正しい。でも、量をこなすことでしか見えないものがあるということを、私は書かなかった。
どういうことか。何かを始めたばかりの頃、私たちは何も分からない。これは当然のことだ。何が正しいのか分からない。何が効率的なのか分からない。どの方向に進むべきか分からない。この状態で「効率」や「戦略」を考えても、意味がない。なぜか。効率や戦略を考えるためには、材料が必要だからだ。「このやり方は非効率だった」「あのやり方の方が良かった」という比較ができて、初めて効率が分かる。「この方向は間違いだった」「あの方向が正しかった」という経験があって、初めて戦略が立てられる。つまり、効率や戦略を語るためには、まず経験が必要なのだ。では、経験は、どこから来るのか。量をこなすことから来る。
最初から効率的にやろうとすると、何が起きるか。何も始められなくなる。「どうやったら効率的か」を考えている間に、時間だけが過ぎていく。最適な方法を見つけようとして、いつまでも動き出せない。私はかつて、あるプログラミング言語を学ぼうとした時、まず「最も効率的な学習方法」を調べることに一週間を費やした。本を読み比べた。オンラインコースを比較した。学習ロードマップを作成した。「この本は評判がいい」「このコースは体系的だ」「こういう順序で学ぶべきだ」と、完璧な計画を立てようとした。一週間後、完璧な計画ができた。でも、一行もコードを書いていなかった。
一方、別の言語を学んだ時は、何も考えずにチュートリアルを始めた。「とりあえずやってみよう」と思って、手を動かした。分からないところは飛ばした。エラーが出たら、エラーメッセージをググった。理解が曖昧なまま、とりあえず動くものを作った。非効率だった。無駄なことをたくさんした。後から「ああ、最初からこうすればよかった」と悔やむことが何度もあった。でも、後者の方が、圧倒的に速く身についた。なぜか。手を動かしていたからだ。手を動かすと、分からないことが具体化する。「何が分からないか分からない」という状態から、「これが分からない」という状態になる。そうなれば、調べようがある。学びようがある。
これはエンジニアだけの話ではない。セールスも、CSも、デザイナーも、同じだ。セールスなら、100件の商談をこなして初めて「この業界の顧客は、この切り口で話すと響く」が分かる。CSなら、100件の問い合わせに対応して初めて「この機能のこの部分で、ユーザーはつまづく」が見えてくる。デザイナーなら、100個のプロトタイプを作って初めて「このパターンは使いやすい」という感覚が身につく。最初から「効率的なセールストーク」を設計しようとしても、机上の空論にしかならない。最初から「完璧なカスタマージャーニー」を描こうとしても、現実とズレる。まず量をこなすことで、何が効率的で、何が正しい方向なのかが、初めて見えてくる。
これは、若者だけの話でもない。何か新しいことを始める時、誰もが初心者だ。30歳、40歳、50歳になっても、新しい領域に踏み出す時は、まず量をこなすしかない。「おい、がんばるな」で私が書いた「戦略」は、量をこなした後に見えてくるものだ。量をこなす前に戦略を立てようとしても、机上の空論にしかならない。だから、まず頑張れ。考えるのは、その後でいい。戦略を語りたければ、まず汗をかけ。
効率を追求しすぎることの罠
量をこなすことの価値を語った。では、量だけが大事なのか。そうではない。ここで、「効率」の話をしたい。
「おい、がんばるな」で、私は効率の重要性を強調した。同じ成果を、より少ない投入で得ること。それが賢い働き方だと。これも、半分正しくて、半分間違っている。効率を追求することは、確かに重要だ。無駄なことに時間を使わない。最短距離で成果を出す。それは、賢いことだ。でも、効率を追求しすぎると、動けなくなるという罠がある。
どういうことか。効率を追求するとは、「最小の投入で最大の成果を得ようとすること」だ。これ自体は良いことだ。でも、これを突き詰めると、どうなるか。「成果が保証されていないことには、投入しない」という態度になりやすい。なぜか。効率の計算をするためには、投入と成果の関係が見えている必要がある。「これだけ投入すれば、これだけの成果が得られる」という予測ができて、初めて効率が計算できる。だから、効率を重視するあまり、「成果が予測できること」だけを選ぶようになる。「この作業は、本当に必要か?成果につながるか?」「このアプローチは、本当に効率的か?もっと良い方法はないか?」「この投資は、本当にリターンがあるか?損をしないか?」。こう考え始めると、確実にリターンがあることにしか、時間を使えなくなる。
でも、ここで立ち止まって考えてほしい。人生で最も価値のあるものは、リターンの不確実なものが多いのではないだろうか。新しいスキルを学ぶ。そのスキルが役に立つかどうかは、学ぶ前には分からない。学んでみて、使ってみて、初めて分かる。新しい人間関係を築く。その関係が実を結ぶかどうかは、関係を築く前には分からない。時間をかけて、信頼を積み重ねて、初めて分かる。新しいプロジェクトを始める。そのプロジェクトが成功するかどうかは、始める前には分からない。やってみて、失敗して、修正して、初めて分かる。効率を追求しすぎると、これらの「不確実なこと」に時間を使えなくなる。確実にリターンがあることだけをやるようになる。
すると、どうなるか。安全な場所から出られなくなる。今までやってきたこと。確実にできること。リスクのないこと。そういうものだけをやり続ける。その結果、成長がない。変化がない。じわじわと、世界が狭くなっていく。新しいことに挑戦しないから、新しい可能性が開かれない。
私は、効率を追求するあまり、「無駄なこと」を一切しなくなった時期がある。仕事に直接関係のない本は読まない。読んでも仕事の成果につながらないから。すぐに役立たない技術は学ばない。学んでも今の仕事では使わないから。「これは何の役に立つのか」が説明できないことには、時間を使わない。説明できないということは、効率が計算できないということだから。確かに、目の前の仕事は効率的にこなせるようになった。無駄がなくなった。短時間で成果が出るようになった。でも、新しいアイデアが浮かばなくなった。視野が狭くなった。仕事は回せるけど、面白い発想ができなくなった。つまらない人間になっていった。
なぜか。「無駄」の中にこそ、予想外の価値があるからだ。一見無駄に見える読書が、思わぬところで仕事に活きる。すぐに役立たない技術が、数年後には大きな武器になる。「何の役に立つか分からない」経験が、人間としての厚みを作る。効率だけを追求すると、その「予想外の価値」を取りこぼしてしまう。だから、時には非効率を許容しろ。時には「何の役に立つか分からないこと」に時間を使え。それが、長期的には最も効率的な投資になることがある。効率やリターンが見えないことの中に、本当は心のどこかで「それでもやってみたい」と思っているものがないだろうか。その声を、効率という物差しで測って、黙らせていないだろうか。計算できないものにこそ、人生を変える何かが潜んでいる。
「持続可能性」という名の逃げ道
効率の話をしてきた。次は、もう1つの「賢そうな言葉」について考えたい。「持続可能性」だ。
「おい、がんばるな」で、私は持続可能性の重要性を説いた。無理をしない。長く続けられるペースで。燃え尽きないように。これは正しい。燃え尽きて動けなくなったら、意味がない。長く続けることは確かに大事だ。でも、この言葉が逃げ道になることがある。
どういうことか。「持続可能なペースで」と言うと、それは賢明に聞こえる。長期的な視点を持っている。自分を大切にしている。無理をしない。計画的だ。でも、その「持続可能なペース」は、本当に適切なのだろうか。ここで、人間の心理について考えてみたい。私たちは、自分の限界を過小評価しがちだ。「これ以上やったら壊れる」と感じる地点は、実際の限界よりもずっと手前にあることが多い。なぜか。人間は、不快なことを避けたい生き物だからだ。辛いこと、苦しいこと、面倒なことは、できれば避けたい。これは自然な感情だ。だから、実際に壊れるよりもずっと手前で、「もう限界だ」と感じてしまう。まだ余力があるのに、「これ以上は無理だ」と思ってしまう。
「持続可能なペース」という言葉を使う時、私たちは無意識に、その「過小評価された限界」を基準にしていないだろうか。本当は、もう少し頑張れる。もう少し踏ん張れる。でも、「持続可能性」という言葉を使って、その踏ん張りを回避していないだろうか。「持続可能性」は、時に「楽をするための言い訳」になる。
もちろん、本当に限界の人はいる。本当に休まなければならない人はいる。その人たちにとって、「持続可能性」は正当な理由だ。そういう人に「もっと頑張れ」と言うのは、暴力だ。でも、全員がそうではない。まだ余力があるのに、「持続可能性」を理由にブレーキをかけている人もいる。ここで、もう1つ正直に自分に問いかけてみてほしい。「持続可能なペース」と言った時、それは本当に「長期的に最適なペース」なのか。それとも、「今、楽でいられるペース」なのか。この2つは、似ているようで、全く違う。
長期的に最適なペースは、時に短期的には辛い。なぜか。成長するためには、今の自分を超える必要があるからだ。今の自分を超えるためには、今の自分には辛いことをする必要がある。筋肉を鍛える時のことを考えてみてほしい。筋肉は、負荷をかけて、一度壊れて、修復される過程で強くなる。楽な負荷だけかけていても、筋肉は成長しない。能力も同じだ。今できることだけやっていても、能力は成長しない。今できないこと、今の自分には辛いことに挑戦して、初めて成長する。「持続可能性」を盾にして、その「辛いこと」を避けていたら、成長はない。踏ん張るべき時には、踏ん張れ。いつでも快適でいようとするな。不快さの中にこそ、成長がある。
最近、「持続可能性のため」と言ってブレーキを踏んだ場面を思い出してほしい。それは本当に長期のためだっただろうか。それとも、今ラクでいたい自分のためだっただろうか。答えは、自分の中にしかない。「持続可能性」は免罪符じゃない。逃げ道を正当化する言葉でもない。
苦しみの中でしか得られないもの
ここまで、「甘い毒」「量」「効率」「持続可能性」の話をしてきた。これらに共通するのは、「苦しみとどう向き合うか」という問いだ。次は、その「苦しみ」について、もう少し直接的に語りたい。
「おい、がんばるな」で、私は「苦しみを美化するな」と書いた。苦しむこと自体には価値がない。同じ成果を楽に得られるなら、その方がいいと。これも、半分正しくて、半分間違っている。確かに、苦しむこと自体を目的にするのは間違っている。苦しめば偉いわけではない。苦労すれば成果が出るわけではない。無意味な苦しみは、ただの消耗だ。でも、苦しみの中でしか得られないものがあるということも、事実だ。それは何か。自分が何者であるかを知ることだ。
どういうことか。人間は、追い込まれた時に、本当の自分が出る。楽な時、余裕がある時には、本当の自分は見えない。余裕があると、取り繕える。自分を良く見せられる。でも、苦しみの中では、取り繕う余裕がなくなる。本当の自分が、否応なく姿を現す。自分は、どこまで耐えられるのか。限界だと思った先に、まだ力が残っているのか。自分は、何を諦められないのか。何を捨てても、これだけは手放せないというものは何なのか。自分は、何のために頑張れるのか。お金のためか、評価のためか、それとも、もっと別の何かのためか。これらの問いに対する答えは、快適な場所にいては見つからない。不快な場所に身を置いて、初めて見えてくる。
私は、あるプロジェクトで、本当に追い込まれた経験がある。締め切りは迫っている。スケジュールは遅延している。チームは疲弊している。メンバーの顔に疲労が見える。問題は山積みだ。1つ解決すると、別の問題が浮上する。毎日が綱渡りだった。辛かった。何度も逃げ出したいと思った。「こんなの、持続可能じゃない」と思った。「なんでこんなことをしているんだろう」と思った。でも、あの経験がなければ、今の自分はいない。
これはエンジニアだけの話ではない。セールスなら、どうしても落とせない大型案件に挑み続けた経験。何度も断られ、それでも食らいついた経験。その中で「自分は何のために営業をしているのか」が見えてくる。CSなら、クレームが殺到した時期を乗り越えた経験。理不尽に怒られ、なお丁寧に対応し続けた経験。その中で「自分はどこまでユーザーに寄り添えるのか」が見えてくる。現場で働くすべての人に、そういう経験がある。
あの時、自分が何を大切にしているのかが分かった。チームのために最後まで踏ん張りたいと思っている自分がいた。良いものを作りたいと思っている自分がいた。自分がどこまで頑張れるのかが分かった。「もう無理だ」と思ったところから、より三歩進めた。限界だと思っていたところは、限界ではなかった。そして、自分がそこまで頑張れるという自信が、あの経験から生まれた。この自信は、快適な場所では得られない。苦しみを乗り越えた経験からしか得られない。「あの時、あれだけ辛いことを乗り越えた」という記憶は、次の困難へ立ち向かう力になる。「あの時できたのだから、今回もできる」という自信は、前へ進む勇気になる。
だから、苦しみを避けるな。もちろん、無意味な苦しみは避けるべきだ。方向が間違っているなら、修正すべきだ。でも、正しい方向に進んでいるなら、苦しみを恐れるな。その苦しみの中に、あなたのまだ知らない自分がいる。苦しみを避けて到達する場所に、本当の自分はいない。
「休むこと」を過大評価していた
苦しみの話をしてきた。では、苦しみの反対にある「休息」は、どうだろうか。「おい、がんばるな」で、私は休むことの重要性を強調した。休憩は投資だ。睡眠は投資だ。休むことで、生産性が上がると。これは正しい。休息は大事だ。睡眠不足は判断力を鈍らせる。疲労は生産性を下げる。でも、休むことを過大評価していたという反省もある。
どういうことか。休むことが重要なのは、その後にまた頑張るためだ。休息は、次の活動のための準備だ。体を回復させ、頭をリフレッシュさせ、また動き出すための準備だ。つまり、休息の価値は「その後の活動」によって決まる。休んだ後に何もしないなら、休息の意味がない。でも、「休むことが大事」という言葉を聞くと、休むこと自体が目的になってしまうことがある。「今日は休む日だから、何もしない」「疲れているから、休まなきゃ」「持続可能性のために、休息を取る」。そう言いながら、ずっと休んでいる。次の活動が、いつまでも始まらない。休息は、活動のための手段だ。休息自体が目的ではない。この区別を忘れると、「休むこと」が「何もしないこと」にすり替わってしまう。
私は、「休息も投資だ」と言いながら、実際には逃避していた時期がある。「今日は休む」と言いながら、本当は面倒なことを避けていた。やるべきことがあるのに、「疲れているから」と言って、やらなかった。「持続可能性のため」と言いながら、実際には楽をしていた。もう少し頑張れる状態なのに、「無理は禁物だから」と言って、手を抜いた。休息と逃避は、外からは区別がつかない。どちらも「何もしていない」ように見える。区別できるのは、自分だけだ。
これはエンジニアだけの話ではない。セールスなら、「今日は疲れているから、あのリードへの連絡は明日にしよう」と言い続けて、結局連絡しないまま案件を逃すことがある。CSなら、「この問い合わせは複雑だから、体調が良い時に対応しよう」と言い続けて、対応が遅れてユーザーの信頼を失うことがある。どの職種でも、「休息」と「先延ばし」の境界は曖昧だ。
自分に正直に問いかけてほしい。今、休んでいるのは、次に頑張るための準備なのか。それとも、頑張ることから逃げているだけなのか。この2つは、外見は同じでも、本質は全く違う。次に頑張るための休息には、終わりがある。回復したら、また動き出す。頑張ることからの逃避には、終わりがない。いつまでも「まだ疲れている」「まだ準備ができていない」と言い続ける。前者なら、休め。後者なら、立ち上がれ。休息は充電だ。放電しないなら、充電する意味はない。
「考えること」を言い訳にするな
休息の話をしてきた。次は、もう1つの「賢そうな行為」について考えたい。「考えること」だ。「おい、がんばるな」で、私は「考えること」の重要性を説いた。がむしゃらに動くな。立ち止まって考えろ。方向性を確認しろと。これは正しい。考えずに動くと、間違った方向に全力で進んでしまう。それは危険だ。でも、「考えること」が行動しない言い訳になることがある。
どういうことか。「まだ考えがまとまっていない」「もう少し情報が必要だ」「方向性を確認してから動きたい」。こう言いながら、いつまでも動かない人がいる。考えることは大事だ。でも、考えているだけでは、何も起きない。なぜか。世界は、行動によってしか変わらないからだ。頭の中でどれだけ完璧な計画を立てても、行動しなければ、現実は何も変わらない。素晴らしいアイデアがあっても、実行しなければ、ただの妄想だ。
そして、皮肉なことに、行動しないと、本当に必要な情報は手に入らない。何かを始める前は、何が分からないかも分からない。何が問題になるかも分からない。どこが難しいかも分からない。頭の中で考えているだけでは、これは分からない。机上で計画を立てているだけでは、見えてこない。実際にやってみて初めて分かる。手を動かし、困難にぶつかり、失敗して初めて「ああ、ここが問題だったのか」と分かる。だから、「もっと考えてから」「もっと情報を集めてから」と言い続けていると、永遠に動き出せない。必要な情報は、動き出さないと手に入らないからだ。
これはエンジニアだけの話ではない。セールスなら、「この業界のことをもっと調べてから提案しよう」と言い続けて、結局一度も商談に臨まないことがある。しかし、実際に商談に出て、顧客の反応を見て、初めて「この業界は価格よりもサポート体制を重視する」が分かる。CSなら、「この機能の仕様をもっと理解してから対応しよう」と言い続けて、結局ユーザーを待たせてしまうことがある。ただ、実際に対応しながら調べ、先輩に聞くことで「この機能は、こういう使い方をするユーザーがいる」と分かる。どの職種でも、動くことでしか得られない知識がある。
これは鶏と卵のような問題に見えるだろう。動くためには情報が必要だ。しかし、情報を得るためには動く必要がある。どうすればいいのか。答えは、不完全なまま動き始めることだ。完璧な計画を待つな。不完全なまま始めろ。間違っているだろう。失敗するだろう。それでも、始めなければ、何も始まらない。動きながら考えろ。走りながら修正しろ。考えることと動くことは、どちらか一方ではない。順番に行うものでもない。両方同時にやるものだ。動きながら考え、考えながら動く。そうすることで、より良い方向に、より速く進める。
「まだ準備ができていない」「もう少し考えてから」と言って先送りしていることがあるなら、立ち止まって考えてみてほしい。それは本当に考える段階なのか。それとも、動くことを怖がっているだけなのか。考えることと、考えているふりをして逃げることは、違う。準備が整う日は、永遠に来ない。来たと思える日は、動き始めた後にしか訪れない。
では、何が「努力」なのか
ここまで、「頑張らなくていい」という言葉の危うさを書いてきた。量をこなすことの価値。効率を追求しすぎることの罠。持続可能性が逃げ道になること。苦しみの中でしか得られないもの。休むことの過大評価。考えることが言い訳になること。では、結局、何をすればいいのか。ここで、「頑張ること」と「努力すること」を区別したい。
頑張ることは、「とにかくやること」だ。方向も考えず、効率も考えず、ただ時間とエネルギーを投入する。がむしゃらに動く。汗をかく。疲れる。これは「おい、がんばるな」で批判したことであり、確かに問題がある。方向が間違っていたら、どれだけ頑張っても成果は出ない。
努力することは、「考えながらやること」だ。方向を意識し、フィードバックを得て、修正しながら進む。効率を考える。戦略を立てる。ただ、考えるだけでなく、実際に動く。これは、頑張ることとは違う。しかし、努力には「やること」が含まれている。ここが重要なポイントだ。「考えること」だけでは、努力ではない。「やること」が必要だ。そして、「やること」には、しばしば苦しみが伴う。不快さが伴う。疲労が伴う。それを避けていたら、努力にはならない。
努力とは、正しい方向に向かって、苦しみを引き受けながら、行動し続けることだ。もう少し分解して説明しよう。まず、「正しい方向に向かって」。これは、考えることだ。自分は何を達成したいのか。どこに向かいたいのか。そのためには、何をすべきか。これを考える。次に、「苦しみを引き受けながら」。これは、踏ん張ることだ。辛くても、やる。不快でも、続ける。逃げ出したくなっても、踏みとどまる。そして、「行動し続ける」。これは、動くことだ。考えるだけでなく、実際に手を動かす。失敗しても、また動く。続ける。この三つが揃って、初めて「努力」になる。
これはどの職種でも同じだ。エンジニアなら、正しいアーキテクチャを考え、難しいバグと格闘しながら、コードを書き続ける。セールスなら、顧客の課題を考え、断られる辛さを引き受けながら、提案を続ける。CSなら、ユーザーの真のニーズを考え、クレームの辛さを引き受けながら、対応を続ける。デザイナーなら、ユーザー体験を考え、何度もダメ出しされる辛さを引き受けながら、デザインを続ける。どの仕事でも、努力の構造は同じだ。
「頑張るな」と言って、苦しみを避けることを正当化してはいけない。苦しみは、努力の一部だ。「考えろ」と言って、行動しないことを正当化してはいけない。行動は、努力の一部だ。方向を考えながら、苦しみを引き受けながら、行動し続ける。それが、努力だ。楽をしながら成長はできない。考えるだけで変わることもできない。
誘惑という名の逃げ道
努力の定義をした。正しい方向に向かって、苦しみを引き受けながら、行動し続けること。それが努力だと書いた。しかし、ここで正直に認めなければならないことがある。努力するのは、難しい。なぜか。現代社会には、努力から逃げるための誘惑が溢れているからだ。
スマホを開けばSNSが待っている。通知が鳴り続ける。動画は自動再生される。情報は洪水のように押し寄せる。疲れた時、辛い時、つい手が伸びる。「ちょっと休憩」と言いながら、気づけば1時間、2時間が過ぎている。これは、休息ではない。逃避だ。先ほど「休むことの過大評価」の話をした。ここでも同じことが起きている。私たちは「少し気分転換」と言いながら、実際には努力から逃げている。
ここで、1つの考え方を紹介したい。ジェイ・シェティという作家がいる。彼は実際に僧侶として修行した経験を持ち、その経験をもとに「モンク思考」という考え方を世界に広めた。私たちはつい、他人と年収を比べたり、社会的なイメージで仕事を選んだりしてしまう。「成功とはこういうもの」「幸せとはこういうもの」という外側からの定義に、無意識に縛られている。しかし、本当はどのような人生を送りたいのか。本当はどのような人間になりたいのか。この問いに、自分の言葉で答えられるだろうか。
彼が説くのは、「手放す」「成長する」「与える」という3つのステップだ。まず、執着を手放す。他人の評価、過去の成功体験、「こうあるべき」というプレッシャー。これらを握りしめていると、本当に大切なものが見えなくなる。次に、自分の情熱と才能に向き合う。何をしている時に時間を忘れるか。何に取り組んでいる時に充実感を感じるか。他人の期待ではなく、自分の内側から湧き上がるものを見つける。そして、目的を持って生きる。自分のためだけに努力するのではなく、誰かのために、何かのために努力する。その方が、長く続く。強く踏ん張れる。
この考え方の核心は、「小さなノー」の積み重ねだ。SNSを見ない。無駄な飲み会を断る。ダラダラとネットサーフィンしない。1つ1つは小さな「ノー」だ。しかし、この小さな「ノー」を積み重ねることで、本当に大切なことに「イエス」と言えるようになる。誘惑に「ノー」と言うことで、努力に「イエス」と言える。
私たちは、誘惑に負けるたび、自分を少しずつ裏切っている。「今日くらいいいか」「疲れているから仕方ない」「明日から頑張ろう」。そう言いながら、努力から逃げている。その言い訳を、いつまで続けるのか。永遠に僧侶のように生きる必要はない。ただ、誘惑を言い訳にするのをやめろ。集中できないのは環境のせいではない。自分が誘惑を選んでいるだけだ。スマホを閉じろ。通知をオフにしろ。そして、今やるべきことに向き合え。それが、努力の第一歩だ。
踏ん張るべき時に踏ん張れ
努力の定義をした。最後に、1つのことを言いたい。人生には、踏ん張るべき時がある。チャンスは、いつでも来るわけではない。絶好の機会は、そう何度もあるわけではない。その時が来た時に踏ん張れるかどうかで、人生は変わる。踏ん張るべき時に「持続可能性が」と言って引いてしまったら、チャンスを逃す。踏ん張るべき時に「効率が」と言って計算してしまったら、大事なものを取りこぼす。踏ん張るべき時に「休息が」と言って立ち止まってしまったら、流れに乗れない。踏ん張るべき時には、理屈を超えて、踏ん張れ。
これはどの職種でも同じだ。エンジニアなら、リリース前の追い込み、障害対応、重要な技術選定の議論。セールスなら、年度末のクロージング、大型案件のコンペ、重要な顧客との交渉。CSなら、大規模障害時のユーザー対応、重要顧客の離脱防止、クリティカルなクレームへの対応。どの仕事にも、「ここが勝負所」という瞬間がある。その瞬間に踏ん張れるかどうかで、キャリアは変わる。
もちろん、いつも踏ん張れとは言わない。いつも踏ん張っていたら、壊れる。それは「おい、がんばるな」で書いた通りだ。だからこそ、踏ん張るべき時を見極めることが大事だ。普段は力を温存し、ペースを守り、回復する時間を取る。そして、その時が来たら、全力で踏ん張ることが大事だ。温存していた力を、すべて出し切る。「おい、がんばるな」は、「いつも踏ん張っている人」に向けた言葉だった。常にアクセル全開で、休むことを知らない人。そういう人には、確かに「踏ん張りすぎるな」と言う必要がある。
一方で、世の中には、踏ん張るべき時に踏ん張れない人もいる。チャンスが来ても、「疲れているから」「リスクがあるから」「まだ準備ができていないから」と言って、見送ってしまう人。そういう人に「頑張らなくていい」と言ったら、それは間違ったメッセージになる。自分がどちらのタイプか、正直に考えてほしい。いつも踏ん張りすぎて疲弊しているなら、少し力を抜いていい。しかし、踏ん張るべき時に踏ん張れていないなら、今こそ踏ん張る時だ。
この一年を振り返ってみてほしい。「あそこであと一歩踏ん張っていれば」と、未来の自分に言われそうな場面はないだろうか。もしあるなら、それが答えだ。次にその場面が来た時、同じ後悔をしないために、今から準備しておくことだ。チャンスは、準備している人のところにしか来ない。来ても、踏ん張れなければ、すり抜けていく。何もしなくても誰かがお膳立てしてくれて、機会が向こうからやってくる。そんな恵まれた環境が、いつまでも続くと信じるな。続いたとしても、それは成長ではない。ただの停滞だ。
ここで、厳しいことを言う。世の中は理不尽で、不公平だ。生まれた環境も、与えられた才能も、巡ってくる機会も、平等ではない。それは事実だ。口で何を言っても、不満を並べても、愚痴をこぼしても、その現実は変わらない。SNSで正論を叫んでも、飲み会で上司の悪口を言っても、世の中は1ミリも動かない。行動しなければ、努力しなければ、状況は何も変わらない。これは冷たい言葉ではない。むしろ、希望の言葉だ。なぜなら、行動すれば変わる可能性があるということだからだ。理不尽な世界の中で、自分の手で変えられるものがある。それが、努力だ。
ここで、1つの反論が聞こえてくる。「そもそも、このゲーム自体がおかしいのではないか」と。努力すれば成功者が増えるのか。全員が頑張れば、全員が報われるのか。答えはノーだ。構造的に、成功者の席は限られている。全員が努力しても、椅子取りゲームの椅子は増えない。格差は縮まるどころか、広がり続ける。能力主義という名のレースは、走れば走るほど、差が開いていく仕組みになっている。それは、経済学的にも、社会学的にも、既に答えが出ている話だ。
では、このゲームから降りればいいのか。「こんな不公平なレースには参加しない」と宣言すればいいのか。私は、その選択を否定しない。降りる自由はある。しかし、自分に問いかけてみてほしい。降りたところで、何が開けるのか。レースから降りた先に、別の人生があるのか。不参加を表明したところで、この社会の中で生きていくことに変わりはない。構造を批判しながら、その構造の中で生きていく。それが、大半の人間の現実だ。
だから私は、こう考える。ゲームがおかしいことは分かっている。ルールが不公平なことも分かっている。それでも、このゲームの中で生きていく以上、このゲームの中での戦い方を身につけるしかない。構造を変えることは、個人の努力ではほぼ不可能だ。でも、構造の中での自分の位置を変えることは、できる可能性がある。それが、努力だ。
大事なのは、その理不尽さや不公平さを、腹の底から受け入れることだ。「なぜ自分だけ」「もっと恵まれていれば」という思いを抱えたまま努力しても、どこかで折れる。被害者意識を持ったまま走っても、長くは続かない。世の中が不公平であることを認めた上で、それでも前に進む。不公平を嘆く暇があるなら、その時間で一歩でも進め。理不尽に怒るエネルギーがあるなら、そのエネルギーを努力に変えろ。それが、この不完全な世界で生き抜くための唯一の方法だ。
努力せずに目標が達成できると、本気で信じているなら教えてほしい。努力もせずに、この淀んだ自分という檻から抜け出せると、本気で信じているなら教えてほしい。私は信じていない。自分を変えるには、努力が必要だ。今の自分を超えるには、苦しみを引き受ける必要がある。檻から出るには、その困難を押し続ける必要がある。それを避けて、「頑張らなくていい」という言葉に逃げ込んでも、檻は壊れない。自分は変わらない。淀んだ水は、そのまま淀み続ける。努力なしに変われると信じるな。苦しみなしに成長できると信じるな。檻を壊すのは、他の誰でもない、自分自身だ。
ここまで厳しいことを書いてきた。しかし、1つだけ、白状させてほしい。私は、自分のことを特別だと思えたことがない。ふとした瞬間に気づく。ああ、俺は凡人だな、と。天才じゃない。選ばれた側の人間でもない。器には限界がある。どうしようもなく、限界がある。周りを見れば、自分より優秀な人間なんていくらでもいる。悔しいが、事実だ。
そして、もう1つ。万全の状態で仕事に臨める日なんて、一生来ない。体調が悪い。眠れていない。私生活がぐちゃぐちゃだ。そんな日の方が、圧倒的に多い。それでも、やる。最悪の日であっても、最低限の水準は守る。それがプロだ。凡人だから、積み上げるしかない。万全を待っていたら何も始まらないから、不完全なままでも動ける自分を作るしかない。
おわりに
「おい、がんばるな」と書いた。今日は「おい、努力しろ」と書いた。矛盾しているように見えるだろう。しかし、矛盾していない。どちらも、同じことを言っている。「考えずに頑張るな」「ただし、考えながら頑張れ」。これを一言で言えば、「努力しろ」だ。
努力には、考えることが含まれている。方向を意識することが含まれている。フィードバックを得ることが含まれている。同時に、努力には、行動することも含まれている。苦しみを引き受けることも含まれている。踏ん張ることも含まれている。「頑張るな」という言葉だけを受け取って、行動しなくなってはいけない。苦しみを避けてはいけない。踏ん張ることをやめてはいけない。考えながら、頑張れ。方向を意識しながら、踏ん張れ。それが、努力だ。
「おい、がんばるな」は、片面だけを描いた絵だった。今日は、もう片面を描いた。両方を見て、初めて全体が見える。——と言いたいところだが、正直に言えば、これでもまだ全体ではない。この問題には、2つの面だけでなく、もっと多くの面がある。私が見えていない角度がある。私が経験していない状況がある。私が想像すらできていない視点がある。
たとえば、心身の病を抱えている人にとって、「努力しろ」という言葉がどう響くか。私には、本当の意味では分からない。あるいは、社会的な制約の中で選択肢が限られている人にとって、「踏ん張れ」という言葉がどう響くか。私には、本当の意味では分かっていない。私が書いたのは、私の経験から見えた2つの面に過ぎない。他にも面はある。3つ目も、4つ目も、おそらくもっとたくさんある。それは自覚している。
だから、この文章を「正解」として読まないでほしい。これは、1つの視点だ。私という人間が、私の経験を通して見た、1つの景色だ。あなたには、あなたの景色がある。あなたの経験から見える面がある。それは、私には見えない面だろう。あなたが今、どちらの言葉を必要としているかは、あなた自身にしか分からない。頑張りすぎて疲弊しているなら、「おい、がんばるな」を読んでほしい。頑張れずに停滞しているなら、「おい、努力しろ」を読んでほしい。
どちらの状態にいても、前に進むことをやめるな。前に進むとは、行動することだ。考えることだ。苦しみを引き受けることだ。そして、それを続けることだ。おい、努力しろ。考えながら、頑張れ。方向を見据えながら、踏ん張れ。休みながらも、また立ち上がれ。それが、あなたを前に進ませる唯一の方法だ。

















