はじめに
先日、久しぶりに会った友人に言われた。
「なんか最近、顔が疲れてない?」と。私は「まあ、仕事が忙しくて」と答えた。友人は「頑張ってるんだね」と言って、ビールを一口飲んだ。
頑張ってる。
その言葉を聞いた瞬間、なぜか胸のあたりがざわついた。褒められているはずなのに、全然嬉しくない。むしろ、何かを見透かされたような、居心地の悪さがあった。
帰り道、ずっと考えていた。私は確かに頑張っている。毎日遅くまで働いているし、休日も勉強しているし、やるべきことは山ほどある。でも、だから何なんだろう。頑張っているから、何なんだ。
30歳になった。
節目だとか、大人になったとか、そういう感慨は特にない。ただ、20代の頃とは何かが決定的に違う。何が違うのか、最初はよく分からなかった。体力が落ちたとか、徹夜ができなくなったとか、そういう分かりやすい話でもない。
しばらく考えて、ようやく気づいた。
「頑張っている」という言葉が、免罪符にならなくなったのだ。
20代の頃は、頑張っていれば許された。成果が出なくても、方向が間違っていても、「でも頑張ってるから」で何とかなった。周りもそう言ってくれたし、自分でもそう信じていた。頑張ることそのものに価値がある、と。
でも30歳になって、その魔法が解けた。頑張っているのに何も変わらない自分がいて、頑張っているのに評価されない現実があって、頑張っているのに前に進んでいない焦りがある。
頑張ることが、こんなにも虚しいとは思わなかった。
これは、そういう話だ。頑張ることをやめろという話ではない。頑張り方を変えろという話でもない。ただ、「頑張っている」という言葉の正体について、30歳になった私が考えたことを書いてみようと思う。
読んでも何も解決しないかもしれない。でも、同じようなことを感じている人がいたら、少しだけ楽になるかもしれない。そういう気持ちで書いている。
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頑張ることの正体
30歳の誕生日の夜、窓の外を眺めながら「今日も、頑張った」と思いました。でも、その言葉の後に続くはずの達成感はありませんでした。
頑張りで全てを説明しようとしていた
朝から晩まで働いていました。画面を見つめ、会議に出て、そこから開発をしていました。体は確かに疲れています。なのに、何も前に進んでいないという感覚が胸の奥に重く沈んでいるのです。
社会人として8年が経ちました。20代前半の私は「頑張っている自分」が好きでした。努力している姿が自分の価値を証明してくれると思っていたからです。朝誰よりも早く出社し、夜遅くまで残り、休日も勉強する。その生き方が正しいと信じていました。
しかし最近、ある事実に気づいてしまったのです。
頑張ることそれ自体が、いつの間にか目的になっていたということに。
本来、頑張ることは手段であるはずです。何かを達成するため、何かを得るため、どこかに到達するための手段。しかしいつの間にか、頑張ること自体が目的にすり替わっていました。「頑張っている自分」でいることが目的になり、その先に何があるのかを問うことをやめていたのです。
ふと考えてしまいます。もし努力が一切報われない世界だったとしても、私はそれでもなお「頑張りたい」と願うだろうか。
結果のために頑張っているのか。それとも、頑張ること自体が自分の生き方なのか。この2つは似ているようで、まったく違います。
前者であれば、結果が出なければ頑張りは無意味になります。だから私たちは結果を求め、結果が出ないと焦り、自分を責めます。しかし後者であれば、結果に関係なく、頑張ること自体に意味があります。たとえ報われなくても、その過程に価値を見出すことができます。
私は長い間、自分は後者だと思っていました。「努力することに意味がある」と信じていたからです。しかし正直に自分を見つめると、違いました。私は結果を求めていました。評価を求めていました。だから結果が出ないと苦しくなり、評価されないと自分を否定したくなったのです。
もし本当に「頑張ること自体が生き方」なのだとしたら、結果が出なくても穏やかでいられるはず。しかし私はそうではなかった。頑張ることは純粋な生き方ではなく、結果を得るための手段だったのです。
手段であるならば、その手段が有効かどうかを確かめなければなりません。目的地に近づいているかどうかを確認しなければなりません。しかし私は、頑張ること自体を目的にすり替えることで、そこを考えることから逃げていたのです。
全部やろうとした結果
具体的な話をさせてください。社会人になって数年目のことです。
私は様々なことに挑戦させてもらっていました。自分の案件、登壇、ブログ執筆。それにまた、輪読会の運営、勉強会の主催、社内ドキュメントの管理と整備、新卒採用の担当。文脈のない色んなことを並列でやっていました。
全部やりたかったのです。全部できると思っていました。
結果として、全てが中途半端になりました。
輪読会は準備不足で進行がグダグダになり、参加者が気まずそうに沈黙する場面が何度もありました。勉強会は告知が遅れて参加者が集まらず、3人しかいない会場で虚しくスライドをめくりました。ドキュメントは途中まで書いて放置され、それを指摘されることもないまま死にドキュメントが増えていきました。採用面談では候補者の情報を十分に把握できていないまま臨んでしまい、的外れな質問をして相手を困惑させました。自分の案件も遅れ、登壇の準備も直前までバタバタし、ブログは下書きのまま溜まっていきました。
どれも「ちょっとずつダメ」だったのです。致命的な失敗ではない。でも、どれも胸を張って「やり遂げた」とは言えない。
そして厄介なことに、中途半端にやっている間は、誰からもフィードバックをもらえなかったのです。
なぜでしょうか。私が「頑張っているように見えた」からです。
人は頑張っている人に「中途半端だ」とは言いにくいものです。遅くまで残っている。色々なことを引き受けている。一生懸命やっている。そういう姿を見ると、たとえ成果が出ていなくても「まあ、頑張ってるし」と見逃してしまう。指摘する側も遠慮してしまうのです。
だから私は、自分が中途半端であることに気づけませんでした。周りも言ってくれないし、自分でも「頑張っている」という事実で目が曇っていたのです。
ここで気づいたことがあります。私が選んだことだけでなく、選ばずに放置していたものが、私の人生を形作っていたということです。
何かを選ぶとき、私たちは選んだものに意識を向けます。しかし、選ばなかったもの、手を付けずに残してしまったものについては、あまり考えません。でも実際には、その「選ばなかったもの」が積み重なって、今の自分を作っています。
私の場合、「深く集中する時間」を選ばずに放置していました。「1つのことに没頭する経験」を選ばずに放置していました。全部やろうとすることで、何も深くやらないという選択を、無意識のうちにしていたのです。
選択の影にあるもの——それを自覚することが、変わるための第一歩でした。
総量が同じなら全部できるタイプの人もいるでしょう。器用にタスクを切り替えて、それぞれに必要な集中を注げる人。でも私は、おそらくそういうタイプではなかったのです。
1つのことに深く集中しているときは力を発揮できる。でも、複数のことを並列で抱えると、どれにも集中できなくなる。頭の中が常に「あれもやらなきゃ、これもやらなきゃ」で埋まっていて、目の前のことに没頭できない。
問題は、私が怠けていたことではありませんでした。全部やろうとしすぎていたことだったのです。
そしてもう1つ気づいたことがあります。私が盲目的に全部を抱え込んでいる間、周りの人にも迷惑をかけていたということです。中途半端な準備で運営した勉強会に参加してくれた人たち。私の遅れのせいでスケジュールを調整しなければならなかったチームメンバー。
頑張ることは、時に暴力になります。自分だけでなく、周りの人も苦しめてしまうのです。
頑張らないことへの恐怖
こうした経験があっても、頑張ることをやめるのは難しい。
頑張ることに疲れたと思った瞬間、罪悪感が襲ってきます。「頑張らないなんて怠け者だ」「頑張らなかったら停滞してしまう」。心の中で誰かの声が私を責めるのです。
この恐怖はどこから来るのでしょうか。
少し立ち止まって考えてみると、そこには1つの混同があることに気づきます。私たちは「頑張らないこと」と「怠けること」を同じものだと思い込んでいるのです。
しかしある時気づきました。頑張らないことと怠けることは違い、そして頑張ることと前に進むことも違うのだということに。
これを整理すると、こうなります。
「頑張る」とは、エネルギーを注ぎ込むことです。「前に進む」とは、目的地に近づくことです。そして「怠ける」とは、必要なことをしないことです。
エネルギーを注ぎ込んでも、方向が間違っていたら目的地には近づきません。逆に、エネルギーを節約しても、正しい方向に進んでいれば目的地に近づくことができます。
頑張りすぎて何も達成できないより、戦略的に力を抜いて1つを確実に達成した方が価値がある。
頑張らないことへの恐怖を掘り下げていくと、その根底にあるのは「失敗への恐れ」でした。しかし、よりその下を掘ると、本質的な恐怖が見えてきます。私が本当に恐れていたのは、失敗そのものだったのか。それとも、「誰かに失敗を見られること」だったのか。
私が本当に恐れていたのは、失敗そのものではありませんでした。失敗を誰かに見られること、「あいつは頑張らなかったから失敗した」と思われること、それが怖かったのです。
一人で挑戦して一人で失敗するのは、実はそこまで怖くありません。痛いけれど、学びになります。しかし、その失敗を誰かに目撃されること、評価されること、噂されること——それが耐えられなかったのです。
つまり、私の恐怖の本質は「社会的評価への恐れ」でした。自分自身の内側の痛みではなく、他者の目に映る自分の像への恐れだったのです。
この区別は重要です。なぜなら、恐怖の正体を知ることで、対処の仕方が変わるからです。
失敗そのものが怖いのであれば、リスクを減らす工夫をすればいい。しかし「失敗を見られること」が怖いのであれば、問題は失敗ではなく、他者の評価に自分の価値を預けすぎていることにあります。
頑張ることをやめて考えることを始めた時、初めて前に進み始め、結果を出せるようになりました。
頑張ることへの依存
頭では分かっていても、頑張ることをやめられませんでした。私はたぶん、頑張ることに依存していたのです。
朝起きるとすぐに仕事を始め、休憩も取らずに夜遅くまで働いて疲れ果てて眠り、土日も「せっかくの時間だから」と何かをしていました。「何もしない時間」が怖かったのです。
なぜ怖かったのか。それは、何もしていない自分に価値がないと思っていたからです。
この考えをもう少し掘り下げてみましょう。私は無意識のうちに、「自分の価値 = 自分がどれだけ頑張っているか」という等式を信じていました。頑張っていない自分は価値がない。価値のない自分を見たくない。そう感じていたから、常に何かをしている必要があり、頑張っている自分でいる必要があったのです。
「頑張らなければ価値がない自分」と、「頑張っていなくてもここにいていい自分」。この2つのうち、私は本当はどちらを生きたいのだろう。
これは「どちらが正しいか」という論理の問題ではありません。「どちらを選びたいか」という願望の問題です。
頭では「頑張っていなくても価値がある」と分かっています。そう言われれば、そうです。でも、本当にそれを信じているかと問われると、自信がありません。心のどこかで「でも頑張らないと......」という声がするのです。
その声の正体を知ることが、変わるための第一歩でした。
答えは、すぐには出ませんでした。でも、この疑問を抱え続けることが大切でした。論理ではなく願望のレベルで、自分が何を求めているのかを探ること。それが、変わるための出発点になったのです。
しかし不思議なことに、頑張れば頑張るほど、成果は出なくなっていきました。
うまくいかない理由は頑張りすぎていたからです。頑張ることが思考を停止させていて、「とりあえず頑張る」「とにかく動く」と考えることから逃げていたのです。
「頑張ります」という特権
振り返ってみると、若い頃の私にはある種の特権がありました。「頑張ります」と言えば、それで許されていたのです。
計画が甘くても「頑張ります」、ミスをしても「頑張ります」、結果が出なくても「頑張ります」と言えば許されていました。周囲は「若いんだから」「まだ経験が浅いんだから」「熱意があればいい」と納得してくれたのです。
20代前半は特にそうでした。何も考えずにとにかく動き、深夜まで働き、休日も出社していれば評価されました。方向性が間違っていても、やり方が非効率でも、「頑張っている」という事実が全てを覆い隠してくれたのです。
「頑張ります」は、思考停止の免罪符でした。考えなくてよく、戦略を立てなくてよく、ただ熱意を見せればよかったのです。がむしゃらは若さという資本で買えた特権だったのです。
そしてその「がむしゃら」が、ある種の万能感を生んでいました。体力や気力は無限にあり、睡眠を削っても平気で、理想の自分に向かって駆け上がっていく。そんな勢いが許されていて、いやむしろ求められていたのです。
今、手放せずに握りしめている「頑張り」は、本当に自分を守っているのだろうか。それとも、もう要らなくなった古い防具なのだろうか。
かつて「頑張ること」は、私を守ってくれました。若くて経験がなくて、何も分からない時期に、「とにかく頑張る」という姿勢は、私の居場所を確保してくれました。がむしゃらに動くことで、「あいつは一生懸命やっている」と認めてもらえたのです。
しかし、時間が経ちました。状況が変わりました。求められることも変わりました。
かつて私を守ってくれた防具が、今は私の動きを制限しているのではないか。重すぎて前に進めなくなっているのではないか。そう考え始めた時、その防具を一度外してみる勇気が必要でした。
転換点という現実
しかしその「がむしゃらが許される特別な時間」は、予告なく終わります。
私の場合、それは20代後半でした。ある日突然、それまで当たり前にできていたことができなくなりました。朝起きることも人と話すことも簡単な判断さえも重荷になって、「頑張ります」と言ってももう体が動かなくなったのです。
今思えば、それはいつか必ず訪れる終わりでした。30歳という年齢は、「頑張ります」だけでは通用しなくなる境界線なのです。
この変化はいくつかの形で現れます。
まず、周囲の目が変わります。「頑張っている」だけでは評価されなくなります。「で、結果は」「で、どう改善するの」「がむしゃらにやるんじゃなくて、戦略は」と容赦なく聞かれるようになります。
30歳は、熱意ではなく戦略が問われる年齢でした。「頑張っている」と「前に進んでいる」は別物だったのです。
次に、身体の限界が見えてきます。20代のように無理が効かなくなり、深夜まで働いたら翌日に響き、休日を潰したら週明けのパフォーマンスが落ちます。がむしゃらはもはやコストの方が大きいのです。
そして何より、自分自身が「このまま走り続けることに意味があるのか」と考え始めます。がむしゃらに頑張っても前に進んでおらず、ただ消耗しているだけ。そんな実感が、重くのしかかってくるのです。
走り続けることと、前に進むことは違う。この当たり前の事実に、私は30歳になってようやく気づきました。
なぜ私たちは頑張ってしまうのか
しかし、なぜ私たちはそもそもこうなってしまうのでしょうか。なぜ、頑張ってしまうのでしょうか。
私なりの答えは、簡単な答えが欲しいからというものです。
どういうことか説明させてください。私たちが生きている現実は複雑です。何が正しいのか分からない。どの選択が最善なのか分からない。努力が報われるかどうかも分からない。そういう不確実性の中で生きることは、とても不安なことです。
その不安に耐えられないとき、私たちは「頑張れば救われる」という単純で分かりやすい物語の中に逃げ込みます。この物語の中では、何をすべきかが明確です。とにかく頑張ればいい。努力すればいい。諦めなければいい。
ネガティブ・ケイパビリティという言葉があります。不確実さや曖昧さに耐える能力のことです。「自分にもあるだろう」などと言ってみたりしますが、実際には、自分が見えている物語があまりにも狭いだけなのです。「頑張る」という単純な行動原理で、複雑な問題を考えずに済ませているだけなのです。
頑張っている間は「前に進んでいる」という錯覚が得られて充実感があります。この充実感が曲者です。なぜなら、その錯覚が問題から目を背けさせ、「方向性が間違っているのではないか」という疑問を封じ込めてしまうからです。
思考の罠
では、なぜ私たちは頑張ることの問題点という明らかな事実に気づけないのでしょうか。
その答えは、私たちの思考の仕組みにあります。
自分の判断パターンに気づいたことがあります。結論が先にあって、その結論を支持する証拠だけを集め、矛盾する情報は無視していたのです。そして厄介なことに、その正当化のプロセスがあまりにも自然で論理的に見えるため、本人も気づかないのです。
自分の信念を守るために、思考を使ってしまうという、これは無意識の傾向です。
具体例を挙げましょう。「頑張れば報われる」という信念が先にあって、その信念を支持する証拠だけを集めていました。努力した人の成功例は記憶に残るのですが、努力したのに報われなかった人の存在は意識から消えていってしまいます。
30歳になって振り返ると、20代の私は恐ろしいほど確信に満ちていました。「この方法が正しい」「これだけやれば必ず成功する」と疑うことを知らず、いや疑うことを恐れていました。
自分の間違いを認めること
この思考の罠から抜け出すために必要なものがありました。自分が間違っているだろうと認めることです。
これは簡単なようで、とても難しいことでした。
私は「頑張ることは正しい」と信じていました。だから、頑張っても成果が出ない時、「もっと頑張れば」と考えていました。頑張ることが正しいという前提を疑うことは、自分の生き方を否定することのように感じられたのです。
しかしある時、意識的に自分の前提を疑ってみることにしました。「頑張らない方がうまくいくことはないか」と。
すると、思い当たることがいくつも出てきました。
休みを取った翌日の方が、良いアイデアが浮かぶ。締め切りに追われていない時の方が、コードの質が高い。夜遅くまで粘るより、翌朝やり直した方が早く終わる。
これは全て、私自身が経験していたことでした。でも「頑張ることは正しい」という信念が強すぎて、その経験を無視していたのです。
見たくないものは、見えないようにするというのが、人間の脳の仕組みなのだと知りました。
だからこそ、意識的に自分の前提を疑う必要があります。「自分は正しい」という確信から一歩引いて、「自分は間違っているだろう」という可能性を常に心に留めておくこと。それが、思考の罠から抜け出す第一歩でした。
確信は、時に最大の敵になる。
有限であることを知っている、でも分かっていない
では、なぜ私たちはわざわざこの思考の罠にはまってしまうのでしょうか。なぜ、自分の信念を守ろうとするのでしょうか。
その背景には、1つの根本的な事実から目を背けたいという欲求があると私は考えています。それは、人生は有限であるという事実です。
この事実を、私たちは「知っている」はずです。人はいつか死ぬ。時間には限りがある。当たり前のことです。
でも、本当に分かっているかというと、そうではないのです。
思い出してみてください。中学や高校の卒業式の日のことを。「あー、もっと何かできてたな」と思いませんでしたか。部活にもっと打ち込めばよかった。あの子ともっと話せばよかった。文化祭でもっと楽しめばよかった。
卒業式の日、私たちは3年間が有限だったことを、ようやく実感します。
でも、その実感はすぐに消えるのです。大学に入り、社会人になり、日常に戻ると、また時間が無限にあるかのように振る舞い始めます。「いつかやろう」「そのうち学ぼう」「まだ時間はある」と。
30歳になった時、ふと計算してみました。80歳まで生きるとして、残りは50年。週に換算すると約2600週。月に換算すると約600ヶ月。
この数字を見た時、卒業式の日の感覚が蘇ってきました。思ったより、少ないのです。
でも、きっとこの実感もまた薄れていくのでしょう。明日になれば、来週になれば、また時間が無限にあるかのように振る舞い始める。それが人間なのです。
だからこそ、意識的に思い出す必要があるのです。時間は有限であること。すべてをやることは不可能であること。何かを選ぶということは、何かを諦めるということ。
この事実を忘れそうになるたび、卒業式の日の感覚を思い出すようにしています。
時間管理術という逃避
しかし、この事実を常に意識し続けることは難しいものです。むしろ、私たちは無意識のうちにこの現実から目を背けようとします。
その典型的な方法が、時間管理術です。
「もっと効率的に」「もっと生産的に」と時間管理術に縋りつくのは、現実から目を背けているだけなのです。どれだけ効率化しても、時間は増えないのです。
時間管理術は「もっと多くのことができるようになる」という幻想を与えてくれます。しかし実際には、私たちにできることの総量は変わりません。ただ、その有限性を見ないようにしているだけなのです。
ここで逆説的なことが起きます。限られた時間を受け入れることが、実は自由への第一歩なのです。
すべてをやることを諦めた時、初めて「本当にやりたいこと」が見えてきます。「やるべきこと」ではなく「やりたいこと」へ集中できるようになります。選ばなければならないという制約が、逆に選択を可能にするのです。
忙しさというステータス
時間が有限だと分かっていても、人は忙しさを求めます。私もそうでした。
「忙しい」と言うことが、ある種のステータスでした。忙しい = 重要な仕事をしている = 価値があるという等式を、疑うことなく信じていたのです。
しかし冷静に考えるとおかしな話です。忙しいことと価値を生むことは別のことです。
では、なぜ私たちは忙しくなるのでしょうか。理由はいくつかあります。優先順位がついていないから。断れないから。そして何より忙しさそのものを求めているからです。
暇になることが怖い。何もしていない時間が耐えられない。だから予定を埋める。忙しくする。これは最初に述べた「頑張ることへの依存」と同じ構造です。
意味のない努力
忙しくしているうちに、私はたくさんの意味のない努力をしていました。
完璧な資料を作るために、美しいデザイン、詳細な分析、見栄えの良いグラフを何日もかけて作ります。しかし実際に見られるのは最初の数ページだけです。
定期的な報告のために資料を作って説明して質疑応答する時間を、毎週毎月確保しています。しかしその時間で議論される内容はメール一通で済む内容だったりします。
これは全て、「頑張っている感」を得るための努力でした。実際に価値を生むための努力ではなく、自分と周囲に「頑張っている」と思わせるための努力だったのです。
なぜこんなことをしていたのでしょうか。「頑張っていない自分」が怖かったからです。「何もしていない」と認めることが怖かったから、何かをしている「ふり」をしたのです。
しかしそのせいで、意味のあることをする時間がなくなってしまいました。意味のない努力が、意味のある努力を駆逐していたのです。
なぜ意味のない努力を選んでしまうのか
これは努力の世界における残酷な法則です。なぜ残酷かというと、意味のない努力の方が楽で、見た目の成果が出やすいからです。
比較してみましょう。
完璧な資料を作ることは無理ですが、時間をかければ見栄えはかなり良くなります。しかし複雑な問題を本質的に解決することは難しく、時間をかけてもできるとは限りません。
会議に出席することは簡単です。座って話を聞いてたまに発言すればいい。しかし深く考えて独創的な解決策を生み出すことは難しく、孤独で不確実で失敗するだろう。
だから人は無意識に意味のない努力を選びます。一日の大半を意味のない努力で埋めてしまうため、本質的な努力をする時間がなくなってしまうのです。
楽な努力が、本当の努力を駆逐する。
何もしない時間の価値
この悪循環を断ち切るために、ある日、試しに一日何もしない時間を作ってみました。会議もキャンセルし、メールも見ずに、ただ窓の外を眺める時間を確保しました。
最初は不安でした。「こんなことしていていいのか」「時間を無駄にしているのではないか」と。この不安は、最初に述べた「何もしていない自分に価値がない」という信念から来ています。
しかし一時間、二時間と過ごすうちに何かが変わりました。頭の中がクリアになって、今まで見えなかったものが見えるようになったのです。
忙しさは、思考を停止させます。忙しい状態では「これって意味あるのか」と問う余裕がないため、意味のないことを延々と続けてしまうのです。
そのとき、ふと考えました。何も生み出していない時間や、誰からも評価されない時間にさえ、私の人生の価値は宿りうるのだろうか。
窓の外を眺めているだけの時間。何も「生産」していない時間。誰にも見られていない時間。そういう時間に、価値はあるのでしょうか。
最初、私は「いいえ」と答えていました。価値とは、何かを生み出すことで生まれるものだと思っていたからです。成果があってこそ価値がある。評価されてこそ価値がある。そう信じていました。
しかし、何もしない時間を過ごしているうちに、考えが変わってきました。
その時間は、確かに何も「生産」していませんでした。でも、自分の中で何かが整理され、何かが癒され、何かが育っていたのです。それは目に見える成果ではありませんでしたが、確かに何かが起きていました。
生産性や成果や他者評価——そういったものを全部はがした後に残るもの。それが「自分の時間」の価値なのだろう。何かを生み出すための時間ではなく、ただ存在するための時間。そういう時間があっていいのだと、少しずつ思えるようになりました。
忙しさという霧が晴れて本質が見えたとき、気づきました。今までやっていたことの半分以上は実は必要なく、頑張っていたけれど価値を生んでいなかったのです。
立ち止まった時間が、一番遠くまで連れて行ってくれた。
選択という技術
何もしない時間を作ったことで、30歳になって学んだ最も重要なことの1つが見えてきました。それは、選択することの重要性です。
若い頃は「全部やろう」としていました。新しい技術が出れば学び、新しいプロジェクトがあれば参加し、頼まれた仕事は全て引き受けていました。
確かに、若い頃や自分の成長を誰かが見守ってくれる時期には、それも良いだろう。がむしゃらに量をこなすことで、見えてくるものはあります。
しかしそれだけではありません。
自分の能力を発揮できる環境を自分で選び、作ることもまた、自分の能力なのです。
全部やろうとし続けると、何が起きるでしょうか。エネルギーが分散してどれも中途半端になり、重要なことに十分な時間と集中を注げなくなります。そして何より、自分が得意なこと、やりたいことが見えなくなってしまいます。
若い頃からやりすぎると、自分の可能性を狭めてしまう可能性があるのです。すべてに手を出すことで、「自分は何でもそこそこできる人」にはなれるだろう。しかし「この領域では誰にも負けない」という強みは育ちません。
ある時、尊敬する先輩に「どうやったら全部うまくできますか」と相談しました。彼は笑って「全部うまくやろうとするな。1つだけ、圧倒的にうまくやれ」と言いました。
「勝てる領域を見つけろ」と彼は続けました。「君が他の誰よりも価値を出せる領域、そこに全てを賭けろ。他は最低限でいい」と。
集中することで見えてきたもの
その日から自分の「勝てる領域」を探し始めました。自分は何が得意なのか、どこで他の人と差別化できるのか。
振り返ってみると、私が価値を生んでいたのは、複雑な問題を構造化してシンプルな解決策を示すことでした。資料を何百枚作ることでも、会議を何時間することでもありませんでした。
でも当時の私は、そのことに気づいていませんでした。すべてを同じように頑張っていたからです。得意なことと苦手なこと、重要なことと些細なこと、すべてに同じエネルギーを注いでいました。
それからは、「勝てる領域」へ集中することにしました。複雑な問題に向き合う時間を最大化し、他の作業を最小化しました。
すると不思議なことが起きました。仕事の質が上がり、周囲の評価も上がり、そして忙しさは減ったのです。
やることを減らしたのに、成果は増えた。これは最初、信じられませんでした。
でも考えてみれば当然のことでした。苦手なことに時間を使っていた分を、得意なことに回しただけなのです。同じ時間を使っても、得意なことの方が成果は出ます。
これは怠けているわけではありません。戦略的に力を配分しているだけなのです。
やめることを選ぶ
選択するということは何かを捨てることです。これが最も難しいことでした。
私たちは何かを捨てることに恐怖を感じます。「後で必要になるだろう」「チャンスを逃すだろう」と考えてしまいます。
しかし、「やらないこと」を選ぶ決断こそが、人生における優先順位を明確化する鍵なのです。
ここでもう一度、選択の影について考えてみます。私は「何を選ぶか」については意識していましたが、「何を選ばずに残してしまっているか」については、ほとんど意識していませんでした。
やめることを選ぶとき、私たちは選んだこと(やめること)に意識を向けます。しかし同時に、「続けること」を選んでいるのです。その「続けること」は、続ける価値があるものでしょうか。無意識のうちに惰性で続けているだけではないでしょうか。
私は「To Stopリスト」を作り始めました。やることリストではなく、やめることリストです。
意味のない定例会議に出席するのをやめました。完璧な資料を作るのをやめました。すべての技術トレンドを追うのをやめました。頼まれた仕事を全て引き受けるのをやめました。忙しいふりをするのもやめました。
最初は罪悪感がありました。しかしやめてみると驚きました。誰も困らなかったのです。むしろ重要なことへ集中できるようになって、成果が上がりました。
やめることと怠けることは違います。それは本質に集中するための戦略なのです。
捨てることが、得ることの始まりだった。
努力はベクトルだ
ここまで読んで、頑張ること自体が悪いのだと思われただろう。しかし、そうではありません。問題は「どう頑張るか」なのです。
頑張ることは、ベクトルです。大きさだけじゃなく、方向があるのです。
どれだけ大きな力で頑張っても、方向が間違っていたら目的地には着きません。むしろ遠ざかっていくのです。
多くの人はベクトルの「大きさ」ばかりに注目します。「もっと頑張る」「もっと努力する」「もっと時間をかける」と考え、方向については考えません。
しかし重要なのは方向です。間違った方向に全力で走るより、正しい方向にゆっくり歩く方が、目的地には早く着くのです。
そして、その「方向」を決めるとき、また同じところに戻ってきます。「前に進む」とは、いったい誰の物差しで測られる「進歩」なのか。
社会が示す方向に進むことが「前」なのか。それとも、自分が心から望む方向に進むことが「前」なのか。そこに答えを出さないまま、ベクトルの大きさだけを増やしても、どこにも到達けないのです。
努力と評価のミスマッチ
努力の方向が間違っていると、どうなるでしょうか。努力と評価が一致しない場所で頑張り続けることになります。それは、尋常ではないほど辛いものです。
やっても認められない。いくら頑張っても成果として認識されない。「こんなに頑張っているのになぜ評価されないんだろう」という疑問は、やがて「自分には才能がないのだろう」という絶望に変わっていきます。
しかし、ここで立ち止まって考えてみましょう。問題は才能ではなく、環境とのミスマッチなのだろう。
あなたの能力が発揮されない環境。あなたの強みが評価されない組織。あなたの価値が認識されない役割。そういう場所でどれだけ頑張っても報われません。
これは残酷な事実ですが、同時に希望でもあります。なぜなら、環境は変えられるからです。才能がないのではなく、場所が合っていないだけなら、場所を変えれば状況は改善する可能性があるのです。
能力とは環境との相互作用
ここで、根本的な認識を改める必要があります。「能力」とは、環境との相互作用の中で初めて発揮されるものなのです。
ある環境では高いパフォーマンスを出せる人が、別の環境では全く力を発揮できない。珍しいことではありません。むしろ普通のことです。
私自身、この事実を身をもって経験しました。ある組織でやりたくない仕事を頑張り、長時間働いて必死に努力しました。しかし成果は出ず、評価も上がらず、自己肯定感は下がり続けて、「自分は仕事ができない」と思っていました。
しかし環境を変えた瞬間、すべてが変わったのです。同じ私が違う組織、違う役割で働き始めると、成果が出て評価され、自己肯定感が戻ってきました。私の「能力」は変わっていませんでした。変わったのは環境だったのです。
ですから「自分には能力がない」という結論は早計です。正確には「この環境では、自分の能力が発揮されない」ということなのです。
この認識は重要です。なぜなら、「能力がない」という結論は絶望につながりますが、「環境が合っていない」という認識は行動につながるからです。
頑張りで全てを説明しようとしていた
私は長い間、すべてを「頑張り」で説明していました。環境のことなど、考えもしませんでした。
成果が出ない時は「自分がもっと頑張ればよい」と思っていました。だから、もっと時間をかけ、もっと努力し、もっと自分を追い込みました。
成果が出た時は「自分が頑張ったから」と思っていました。だから、次も同じように頑張れば、同じように成果が出ると信じていました。
うまくいかないのは環境のせいではなく、自分の努力が足りないせい。うまくいったのは環境のおかげではなく、自分の努力のおかげ。すべての原因を「自分の頑張り」に帰属させていたのです。
この考え方は、一見すると責任感があるように見えます。「環境のせいにしない」「自分でコントロールできることに集中する」。でも、実際にはこれは視野の狭さでした。
なぜなら、同じ努力をしても、環境によって成果は大きく変わるからです。自分の強みが発揮される環境なら、少ない努力で大きな成果が出ます。自分の強みが発揮されない環境なら、どれだけ努力しても成果は限られます。
そしてもう1つ、認識しておくべきことがあります。「自分の能力が発揮されない環境」は、常に存在しているということです。
どんな組織にも、どんな役割にも、自分に合わない部分があります。完璧にフィットする環境など存在しません。
大切なのは、それを認めることです。
「ここは自分に合っていない」と認めることは、敗北ではありません。むしろ、そこから戦略が始まります。合わない部分を認めるからこそ、「ではどうするか」を考えられるようになるのです。
私は長い間、合わない部分を認めることができませんでした。「もっと頑張れば何とかなる」と思い続けていました。でも実際には、何ともならなかったのです。ただ消耗しただけでした。
この事実に気づくまで、私は長い時間を要しました。そして気づいた時、ようやく「どこで頑張るか」を考えられるようになったのです。
勝てる領域を見つける
では、どうすれば「勝てる領域」を見つけられるのでしょうか。これはあくまで私の場合の話ですが、無意味な場所で頑張らず、能力が発揮される場所で努力することが、私が燃え尽きずに長く走り続ける秘訣でした。
私は、自分にとって意味の分からない仕事を無限にできる耐久性の高い人間ではありませんでした。合わない環境で合わない仕事を続けることは苦痛でしかありませんでした。それは弱さだろうが、それが私の現実だったのです。
私の場合、開発全般が得意でした。設計と開発、どちらも能力を発揮できて楽しいのです。しかしやってはいけなかったのは、マルチタスクをしながら人との調整やステークホルダー管理を大量にこなすことでした。この能力が著しく低く、全体の生産性がとても下がってしまったのです。
最初は周囲の期待に応えようとして、開発をしながら調整業務もこなそうとしました。しかし評価されませんでした。「中途半端だ」と言ってもらえればまだ良かった。そうではなく、評価が低いだけ。何が問題なのか分からないまま、成果の出ない日々が続きました。
しかしある程度裁量をもらい、開発に集中し始めたら状況が変わりました。「この実装すごく良い」と言われるようになって、チーム全体の生産性が上がり、そして私の評価も上がったのです。
勝てる領域とは、自分の能力と環境のニーズが交わる場所です。自分が得意でも誰も必要としていなければ評価されず、環境が必要としていても自分ができなければ価値を出せません。
その交点を見つけてそこに集中すること、それが努力の方向性を正しく定める方法でした。
戦う場所を選ぶことが、戦い方を決める。
環境という見えない制約
ここまで読んで、あなたはこう考えるだろう。「確かに正しい場所で頑張ることは重要だけれど、そもそも『自分の能力が発揮される環境』なんて、どうやって見つければいいのか」と。
その通りです。自分の能力が発揮される環境は簡単には見つかりません。
そしてもっと現実的な問題があります。今いる環境が自分に合っていないと分かっても、すぐには動けないのです。
住宅ローンがある。家族を養っている。転職するには経験が足りない。業界の状況が悪い。様々な制約が私たちを今の場所に縛り付けています。
だから、戦術的な頑張りも必要なのです。
これは矛盾しているように聞こえるだろう。今まで「頑張りすぎるな」と言ってきたのに、「頑張りも必要」と言うのは。
しかし、これは矛盾ではありません。問題は「頑張ること」自体ではなく、「考えずに頑張ること」だったのです。戦略を持った上での戦術的な頑張りは、必要なものです。
持続可能性という解答
ここまで、頑張ることの問題点と、選択と集中の重要性を述べてきました。では、具体的にどうすればいいのでしょうか。
私が見つけた答えは、持続可能性でした。
面白いことに気づきました。頑張る量を減らしたら、成果が増えたのです。
ある時、私は思い切って変えてみることにしました。やるべき仕事とやらない仕事を分けて、不要なミーティングに出なくなりました。やりたくない仕事を整理させてほしいと相談したのです。
すると不思議なことが起きました。勤務中の8時間の質が劇的に上がったのです。
なぜこうなったのか。理由は単純でした。「この8時間だけが自分の時間だ」と考えると一瞬たりとも無駄にできなくなり、集中力が持続して疲労が少なくなり、翌日もまた集中できるようになったのです。
無駄な時間が減りましたが、学びの質は上がりました。必要なことだけを学ぶようになり、「やらなきゃ」ではなく「やりたい」で動くようになったのです。
この経験から1つの原則を学びました。持続可能性が、成果を生むという原則です。
一時的には全ての時間を注ぎ込む方が多く成果を出せるように見えます。しかし長期的には持続可能なペースの方がずっと多くの成果を生むのです。
無理をして一気にやろうとすると、どこかで必ず破綻します。体調を崩すか、質が落ちるか、燃え尽きるか。そして破綻した後のリカバリーには、節約できたはずの時間よりもずっと長い時間がかかるのです。
新しいやり方の始まり
持続可能性を意識することで、新しいやり方が始まりました。
無理をしない働き方。自分の限界を知った上でのアプローチ。がむしゃらではなく戦略的なやり方。
私の新しいやり方は、「頑張ります」という言葉を封印することから始まりました。
最初は怖かったのを覚えています。「頑張らない」と言ったら「やる気がない」と思われるんじゃないか、評価が下がるんじゃないかと心配していました。
しかし違ったのです。「頑張ります」をやめて「こうします」と言い始めた時、初めて信頼されるようになりました。
具体的な計画を示す。達成可能な目標を設定する。リスクを評価する。代替案を用意する。そして結果を出す。がむしゃらな熱意ではなく冷静な戦略で勝負するやり方に変えたのです。
頑張ることをやめたら時間ができました。その時間で考えることができました。「今の仕事は本当に自分がやりたいことなのか」「この関係性は本当に大切にしたいものなのか」「この努力は本当に価値を生んでいるのか」と。
そして気づきました。今まで「頑張らなきゃ」と思ってやっていたことの多くは、実は自分が本当にやりたいことではなかったのです。社会的な期待に応えるため、周囲に認められるため、「できる人」に見られるため、そういう外的な動機で動いていたのです。
しかし30歳になって、もうそういう生き方は続けられないと悟りました。体力的な限界、精神的な限界、そして何より残りの人生をそんな生き方で使いたくないと思ったのです。
がむしゃらで許された特別な時間の終わりは、敗北ではありません。より賢く、より持続可能なやり方への転換点なのです。
自己犠牲という承認への飢え
新しいやり方を始めてから、もう1つ重要なことに気づきました。それは、自分を大切にすることと他者を大切にすることのバランスについてです。
「他人を優先する自分」でしか価値を感じられない人がいます。自分のニーズを無視して他人に尽くすことで「必要とされている感覚」を得ているのです。
一見すると優しさに見えます。しかし、実はこれは承認への飢えなのです。
自分の時間を全て他人に捧げる。自分の希望を後回しにする。常に誰かの期待に応える。自分が疲れていても「頼まれたから」と引き受ける。その自己犠牲によって「自分は良い人だ」「自分は必要とされている」と感じているのです。
しかし、健全ではありません。自分を大切にできない人は、結局他人を大切にできないからです。
見返りを期待する優しさ
なぜ自己犠牲が健全でないのか、もう少し詳しく説明させてください。
自分を犠牲にして他人に尽くすと、無意識のうちに「見返り」を期待するようになるのです。「こんなに頑張ったんだから感謝されるべきだ」「こんなに尽くしたんだから認められるべきだ」という気持ちが湧いてきます。
そしてその期待が満たされないと怒りや不満が生まれます。「こんなに頑張ったのに」「こんなに尽くしたのに」と相手を責める気持ちが湧いてきます。
これは優しさとは違います。相手のためではなく自分の承認欲求を満たすための行為なのです。
見返りを期待しない優しさもあります。相手のために行動し、その結果がどうであれ満足できる。私はそういう優しさを持ちたいと思いました。
しかし自分が満たされていない状態では、その無条件の優しさを持つことは難しいのです。
まず自分を満たすこと
だからこそ、まず自分を満たすことが大切なのです。
これは理屈としては分かりやすい話です。でも、実行するのは難しいのです。なぜなら、自分を後回しにすることが習慣になっているからです。
私の場合、常に誰かのために動いていました。チームのため、会社のため、プロジェクトのため。そう言えば聞こえは良いのですが、実際には自分のことを考える余裕がなかっただけでした。
そしてある時、限界が来ました。誰かのために動く気力すら湧かなくなったのです。
その時ようやく気づきました。自分が枯れていたら、誰かに何かを与えることはできないのだと。
自分を大切にすることは、自己中心的なことではありません。持続可能に誰かを助けるための前提条件なのです。
自分の限界を知る。自分のニーズを尊重する。時には「できない」と言う勇気を持つ。これは全て、より長く、より健全に他者を大切にするための準備なのです。
そして自分が満たされた状態から他人を助ける。見返りを期待せず純粋に相手のために行動する。私はそういう優しさを持ちたいのです。
空っぽの器からは、何も注げない。
フェーズによる変化
しかしここでも1つ大切なことを付け加えます。キャリアのフェーズによって、求められることは変わるということです。
ジュニアの頃は、がむしゃらでも許されました。むしろ、がむしゃらであることが求められていました。何も分からないのだから、とにかく量をこなせ。失敗してもいいから、手を動かせ。その時期に「効率」や「戦略」を語るのは早すぎたのです。
しかしミドルになると、状況が変わります。「頑張っています」だけでは評価されなくなります。「で、結果は」「で、何を学んだの」と問われるようになります。がむしゃらに動くだけでなく、方向性を持って動くことが求められるのです。
そしてシニアになると、より変わります。自分が頑張ることよりも、チーム全体の成果が問われます。自分一人で抱え込むのではなく、任せることが求められます。「自分が頑張る」から「みんなが頑張れる環境を作る」へ。役割が変わるのです。
私は今、ミドルからシニアへの過渡期にいます。ジュニアの頃のやり方が通用しなくなり、新しいやり方を模索している時期です。
また同じことを考えます。今、手放せずに握りしめている「頑張り」は、本当に自分を守っているのだろうか。それとも、もう要らなくなった古い防具なのだろうか。
ジュニアの頃、「とにかく頑張る」という姿勢は私を守ってくれました。何も分からなくても、がむしゃらにやっていれば居場所がありました。しかし今、同じ姿勢を続けることは、私を守るどころか、足を引っ張っています。
かつて自分を守ってくれた「頑張り方」が、フェーズが変わった今もまだ有効なのか。それとも、アップデートすべきなのか。そこに正直に向き合う必要がありました。
重要なのは、今の自分がどのフェーズにいるかを認識することであり、そのフェーズに応じたやり方を選ぶことです。
ジュニアのやり方をミドルになっても続けていたら、消耗するだけです。ミドルのやり方をシニアになっても続けていたら、チームの足を引っ張ります。フェーズが変われば、やり方も変えなければならないのです。
この文章で私が伝えたいのは「頑張るな」ということではありません。「今の自分のフェーズに合った頑張り方を選べ」ということなのです。
しかし、1つ補足があります。自分では気づけなくても、上司やマネージャーが適切にコントロールしてくれている場合があるということです。
私の場合も、振り返ってみれば、良い上司に恵まれていた時期は自然と適切な仕事量に調整されていました。「それは引き受けなくていい」「今はこっちに集中して」と言ってもらえていたのです。当時は気づいていませんでしたが、それは上司が私の状態を見て、適切に仕事を配分してくれていたからでした。
逆に言えば、自分が上司やチームリーダーになった時には、同じことをする責任があるということです。
メンバーが頑張りすぎていないか。中途半端になっていないか。「頑張っているように見える」からといって見逃していないか。そして、必要であれば「それはやらなくていい」と言えているか。
人は頑張っている人に「中途半端だ」とは言いにくいものです。だからこそ、上司やリーダーは意識的にそれを言う必要があります。言わなければ、かつての私のように、本人は気づかないまま消耗していくのです。
「おい、がんばるな」と言ってあげられる人になること。それもまた、フェーズが変わった時に求められる役割なのです。
「頑張る自分」というアイデンティティ
最後に、最も根深い問題について話させてください。
私は「頑張る自分」というアイデンティティに縛られていました。
「私は頑張る人だ」「私は努力家だ」「私は諦めない」というような自己像があり、その自己像を守るために頑張り続けなければいけなかったのです。
しかしそれは苦しいものでした。「頑張る自分」であり続けるために休めず、立ち止まれず、弱音を吐けなかったのです。「頑張る自分」というアイデンティティが自分を縛る檻になっていました。
ある日ふと気づきました。私は「頑張る」ということ自体にしがみついていて、成果を出すためではなく「頑張る自分」でいるために頑張っていたのです。
そしてまた、同じところに戻ってきます。
「頑張らなければ価値がない自分」と、「頑張っていなくてもここにいていい自分」のどちらを、本当は生きたいのか。
頭で考えれば、答えは明らかです。「頑張っていなくても価値がある」と信じたい。でも、心の奥底では、まだその確信が持てませんでした。
しかし、考え続けることで、少しずつ変わってきました。
そしてもう1つ気づきました。頑張っていなくても自分に価値があるということに。
成果を出していなくても自分に価値がある。忙しくなくても自分に価値がある。価値は頑張ることから来るのではなく、存在することそのものに価値があるのです。
これは宗教的な話ではなく実際的な話です。頑張り続けて壊れた人をたくさん見てきました。優秀な人ほど「もっとできるはずだ」と自分を追い込んで限界を超えて壊れてしまいます。そして壊れたら何も生み出せなくなってしまいます。
何も生み出していない時間にも、価値はあります。誰からも評価されない時間にも、意味があります。生産性という物差しを外した時、初めて見えてくるものがあるのです。
だから頑張らないことは自分を守ることであり、長く続けるための戦略なのです。
全力で走り続けることはできません。どこかで必ず止まります。でも、適切なペースで歩き続けることはできます。そして、歩き続けた人の方が、結果的には遠くまで行けるのです。
「頑張る自分」を降りて「続けられる自分」になり、そして「結果を出す自分」に登る。それが私の選択でした。
おわりに
この文章を書き終えて、コーヒーを淹れた。
カップを持って窓際に立つと、隣のマンションの明かりがいくつか見える。日曜日の夜だ。明日からまた一週間が始まる。みんな、何をしているんだろう。仕事の準備をしているのか、録画していたドラマを見ているのか、あるいは私と同じように、何となく窓の外を眺めているのか。
正直に言うと、この文章を書いたからといって、私が何か変わったわけではない。
明日になれば、また同じように仕事に行く。締め切りに追われて、会議に出て、メールを返して、「頑張らなきゃ」と思う瞬間がきっとある。そういう自分を完全になくすことはできない。たぶん、これからもずっと。
でも、一つだけ変わったことがある。
「頑張っている」と言われたとき、その言葉をそのまま受け取らなくなった。「で、それで何か変わったの?」と自分に聞くようになった。頑張っていることを、言い訳にしなくなった。
それだけのことだ。
たったそれだけのことなのに、少しだけ楽になった。頑張っていない自分を許せるようになった、というのとは違う。頑張ることの価値を、正しく測れるようになった、という感じだ。
この文章を読んで、何か得るものがあったかどうかは分からない。「そんなの当たり前じゃん」と思った人もいるだろうし、「何を言っているのか分からない」と思った人もいるだろう。それでいい。
ただ、もし今、頑張っているのに上手くいかなくて苦しい人がいたら。もし今、頑張れない自分を責めている人がいたら。一つだけ伝えたいことがある。
頑張っていることは、偉いことじゃない。
偉いのは、頑張った結果、何かが変わることだ。何かを生み出すことだ。誰かの役に立つことだ。頑張ること自体には、実は何の価値もない。
でも逆に言えば、頑張らなくても、結果を出せばいいということでもある。頑張らなくても、変われればいいということでもある。頑張らなくても、前に進めればいいということでもある。
だから、頑張らなくていい。
本当に、頑張らなくていい。
その代わり、歩くのはやめないでほしい。自分のペースで、自分の方向に、自分の足で。転んでもいい。休んでもいい。立ち止まってもいい。でも、歩くのだけは、やめないでほしい。
コーヒーが冷めてきた。
明日も、たぶん、いつも通りの一日が来る。でも、いつも通りの一日の中で、少しだけ違う選択ができるかもしれない。「頑張らなきゃ」と思ったとき、「いや、待て」と立ち止まれるかもしれない。
それだけで、十分だと思う。
おい、がんばるな。








