はじめに
2025年6月29日、「#女オタ生成AIハッカソン 2025 夏の陣@東京」なる場において、「生成AIで小説を書くためにプロンプトの制約や原則について学ぶ」という題目で登壇させていただく機会を得た。ハヤカワ五味さんからお声がけいただいた時、私の中でエンジニアとしての好奇心が強く刺激された。エンジニアリングの視点から生成AIの本質を解き明かすことで、創作者の皆様に新しい視点を提供できるのではないか。異なる分野の知見を融合させることで、何か面白いことが起きるかもしれない。そんな期待を胸に、私は登壇に臨んだのであった。(これは嘘で前日不安で酒を飲みすぎた⋯。)
実は、プログラミングの世界では既に大きな変革が進行している。Tim O'Reillyが最近発表した「The End of Programming as We Know It」という論考が示すように、AIの登場によってプログラマーの役割は根本的に変わりつつある。もはや我々は、コードを一行一行書く職人ではなく、AIという「デジタルワーカー」を指揮するマネージャーへと変貌しているのだ。
この変革は、単なる技術的な進化ではない。O'Reillyが指摘するように、プログラミングの歴史は常に「終わり」と「始まり」の連続であった。物理回路の接続から始まり、バイナリコード、アセンブリ言語、高級言語へと進化するたびに、「プログラミングの終わり」が宣言されてきた。しかし実際には、プログラマーの数は減るどころか増え続けてきたのである。そして今、同じ変革の波が創作の世界にも押し寄せようとしている。
資料準備を進める中で、ある確信が生まれた。これは創作の新しい扉が開かれる瞬間なのだと。新しい道具が生まれるたびに、それは既存の方法を否定するのではなく、創作の可能性を拡張してきた。筆から万年筆へ、タイプライターからワープロへ。そして今、AIという新しい道具が加わることで、より多くの人が創作に参加できるようになり、これまでとは異なる表現の可能性が開かれようとしている。(その片鱗を見たのはハッカソンでも同じでアイディアが高速に実現される世界で我々は何をアウトプットするかまだわからない。他人にとって価値のあるものをアウトプットしなくてよくて自分の為にアウトプットできるため)
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登壇資料
普通に業界違いで難産。良い資料になったと思うので興味があれば読んでほしいです。
👻
— nwiizo (@nwiizo) 2025年6月29日
女オタ生成AIハッカソン2025夏東京「生成AIで小説を書くためにプロンプトの制約や原則について学ぶ」というタイトルで登壇します。こちら、資料になります。#女オタ生成AI部 #女オタ生成AIハッカソンhttps://t.co/lisoeFt69h
登壇で伝えたかったこと、伝えきれなかったこと
久しぶりにエモい気持ちになったので散文を書くわね〜!
登壇当日、会場では思いがけない出会いもあった。以前書いた「20代最後の一週間を生きるエンジニア」のブログ記事について、複数の参加者から「あの記事、良かったです」と声をかけていただいたのだ。嬉しかったです(小並)。
プロンプトエンジニアリングは「技芸」である
30分という限られた時間で私が最も強調したかったのは、プロンプトエンジニアリングを単なる「知識」としてではなく、「技芸」として捉えることの重要性であった。
楽譜を読めても楽器が弾けるわけではないように、プロンプトの書き方を知識として学んでも、実際に良い小説が書けるわけではない。これは自明の理である。実際に手を動かし、失敗し、その失敗から学ぶ。この地道な繰り返しによってのみ、AIとの対話の「呼吸」とでも言うべきものが身につくのである。
経済史学者James Bessenが産業革命時代の織物工場を研究して発見したように、新しい技術の導入は単純な置き換えではない。「Learning by doing」、実践を通じた学習こそが、真の生産性向上をもたらすのだ。AIツールを前にした創作者も同じである。マニュアルを読むだけでは不十分で、実際に使い、失敗し、その経験から学ぶことで初めて、新しい創作の技芸が身につく。
登壇では、5つの原則やら段階的アプローチやら、CHARACTER.mdによる管理手法やらを体系的に説明した。これらはすべて重要な「型」である。しかしながら、型を知ることと、型を使いこなすことは天と地ほども違うのだ。重要なのは、新しいツールを恐れずに試し続ける姿勢である。
エンジニアが作った道具を、創作者がいかに手懐けるか
生成AIツールの多くは、悲しいかな、エンジニアによって作られている。論理的な命令を期待し、構造化された入力を前提とし、エラーメッセージも技術用語で埋め尽くされている始末である。
しかし、実は「お作法」を少し知るだけで、AIツールは格段に使いやすくなる。例えば、「悲しい場面を書いて」と頼むより、「主人公が大切な人を失った直後の場面を書いて。雨が降っている。主人公は泣いていない」と具体的に指示する。これ「明確な指示」の出し方だ。
巷でよく聞かれたのは「なぜAIは私の意図を理解してくれないのか」という質問だった。答えは簡単で、AIは文脈を読む能力が人間より劣るからだ。現状だとそういうような機能がないからだ。だからこそ、エンジニアたちが日常的に使っているような「具体的に書く」という習慣が役立つ。「感動的な場面」ではなく「涙を流しながら笑う場面」と書く。さらに「500文字以内で」といった制約を明示したり、「村上春樹のような文体で」と参考例を示したりすることで、AIの出力は見違えるほど良くなる。
最初は「なんでこんな面倒くさいことを」と思うと思う。しかし慣れてくると、この「明確な指示」は創作においても有益だと気づいてもらえると思います。何よりも自分が何を書きたいのか、どんな効果を狙っているのかを言語化する訓練になるのだ。
このような技能を身につけた創作者は、AIを自在に操れるようになる。エンジニアの作法を知ることは、新しい筆の使い方を覚えることに他ならないのである。
小説創作で見えてきたAIの限界と可能性
なぜAI生成の小説は「死んでいる」のか
登壇準備において、私は実際に様々な小説を生成させてみた。その結果、強烈な違和感に襲われることとなった。文法は完璧、語彙も豊富、構成も整っている。しかしながら、物語として致命的に「死んでいる」のである。
この原因を分析してみると、いくつかの根本的な問題が浮かび上がってきた。
まず第一に、AIはすべてを同じ重要度で書いてしまうという悪癖がある。人間が文章を書く際には、無意識のうちに情報の重要度を判断し、メリハリをつけるものだ。重要なシーンは詳しく、そうでない部分は簡潔に。これは物語の基本中の基本である。しかるにAIは、すべてを同じトーンで淡々と出力してしまう。キャラクターの初登場シーンも、日常の何気ない描写も、クライマックスの決戦も、すべて同じ密度で書かれてしまうのだ。これでは読者の感情が動くはずもない。
続いて、具体的なイメージの欠如という問題がある。AIは統計的に「ありそうな」文章を生成することには長けているが、具体的なイメージを喚起する描写となると、からきし駄目なのである。
試しに状況を設定して「感動的な再会シーン」を書かせてみると、返ってくるのは「長い時を経て、二人は再会した。お互いの顔を見つめ、言葉を失った。感動的な瞬間だった」といった具合である。なんたる空虚さであろうか。どこで再会したのか、何年ぶりなのか、どんな表情をしていたのか、まるで分からない。何よりも感動的な再会のシーンに感動的とか言うな。
そして最も深刻なのは、感情の流れが不自然極まりないことである。「私は激怒した。でも彼の笑顔を見るとなぜか許してしまった」などという文章を平然と出力してくる。人間の感情がこんなに単純なわけがあろうか。怒りから許しへの変化には、必ず心理的なプロセスというものがある(ないならない理由がある)。葛藤し、ためらい、そして決断に至る。これらの微妙な心の機微を、AIは出力できないのである。
しかし、ここで重要な視点の転換が必要だ。これらの問題は、AIの限界というよりも、我々がAIとどう協働するかという課題なのである。AIの特性を理解し、その限界を創造的に活用する創作者は、かつてない表現の可能性を手にすることができる。
実践で発見した「創造的な失敗」の価値
しかしながら、悪いことばかりではなかった。登壇準備の過程で、実に興味深い発見があったのである。
「内向的だが本の話題では饒舌になる図書館司書」というキャラクター設定を与えたところ、AIが「本について語るときだけ関西弁になる」という解釈をしてきたのだ。
最初は「なんじゃそりゃ」と思った。私の意図とはまるで違う。しかし、よくよく考えてみると、これはこれで面白いではないか。緊張がほぐれると地が出る、という人間の特性を、思いがけない形で表現している。私の貧相な想像力では到達し得なかった地点である。
このように、AIの「誤解」を単純に修正するのではなく、「なぜそう解釈したのか」を深く考察することで、新しい創造の種が見つかることがある。これは、孤独な創作活動では得られない、実に貴重な刺激なのである。
ただし、ここにも重要な前提がある。この「創造的な失敗」を活かせるのは、もともと創作の素養がある者だけなのだ。面白さの基準を持たない者には、AIの珍妙な出力はただの失敗作にしか見えない。結局のところ、AIは使い手の創造性を増幅する装置であって、無から有を生み出す魔法の箱ではないのである。
AIは、我々に新しい形の「批評性」を要求しているのかもしれない。単にAIの出力を受け入れるのではなく、それを批判的に検討し、創造的に発展させる。そうした対話的な創作プロセスこそが、AI時代の技芸なのである。
制約を創造性に変える妙技
登壇で最も伝えたかったメッセージの一つが、「制約は創造性の敵ではない」ということであった。
LLMには明確な制約がある。長い文脈を保持できない「Lost in the Middle現象」により、物語の中盤の情報を忘れやすい。複数の矛盾する要求を同時に処理することも苦手で、「優しくて厳しい」といった複雑なキャラクターを描くのが困難である。さらに、人格の内的一貫性を理解できないため、キャラクターの行動に矛盾が生じやすいのである。
しかしながら、これらの制約を深く理解し、それを前提とした創作システムを構築することで、新しい可能性が開けてくるのだ。
例えば、「Lost in the Middle現象」への対処として、章ごとに独立した構造を採用し、各章の冒頭でキャラクターの核となる設定を再確認する。複雑なキャラクターは段階的に構築し、まず単一の特徴から始めて、徐々に矛盾や葛藤を追加していく。一貫性の問題は、CHARACTER.mdのような外部ファイルで設定を管理し、常に参照できるようにする。
これらの工夫は、単なる「対症療法」ではない。むしろ、創作プロセスをより意識的で、構造的なものに変える契機となった。俳句が5-7-5という厳格な制約の中で研ぎ澄まされた表現を生み出すように、AIの制約を創造的に活用することができるのである。
実際、AIツールを使いこなす創作者たちは、「より野心的になれる」と口を揃える。かつては一人では手に負えなかった規模の物語も、AIとの協働により実現可能になった。制約があるからこそ、その枠内で最大限の創造性を発揮しようとする。これこそが、新しい時代の創作の醍醐味なのかもしれない。
同じ問題、異なる現れ方
個人のブログで感じる違和感
実のところ、私が最初に生成AIの違和感を感じたのは、小説ではなく技術ブログであった。
最近、個人の技術ブログを読んでいると、明らかに生成AIで書かれたと思しき記事に出会うことが増えた。書籍レベルではまだそういった文章に遭遇していないが、個人のブログでは実に顕著である。
その特徴たるや、過度に丁寧で教科書的な説明、「〜することができます」「〜となっています」といった定型句の連発、具体的な経験談の欠如、そしてどこかで読んだような一般論の羅列である。構造レベルでは正しく整理されているのだが、内容レベルで「生成AIっぽさ」が滲み出てしまうのである。
これは生成AI自体が悪いのではない。むしろ、AIに丸投げして終わらせてしまう姿勢こそが問題なのだ。AIが生成した「薄い」文章で満足してしまうのか、それとも、そこから一歩踏み込んで、自分の経験と思考を注ぎ込むのか。その選択が、新しい時代の創作者を分けるのかもしれない。
なぜ技術ブログでもAIは「薄い」のか
技術ブログで価値があるのは、実際に手を動かした者にしか書けない内容である。「公式ドキュメント通りにやったのに動かなくて、3時間悩んだ末に環境変数の設定ミスだと気づいた」という失敗談。「このライブラリ、最初は使いにくいと思ったけど、慣れると手放せなくなった」という使用感の変化。「本番環境でこの実装をしたら、予想外の負荷がかかって大変なことになった」という痛い経験。
これらはすべて「失敗」や「試行錯誤」の生々しい記録である。AIには、こうした血の通った経験がない。本当に情報を適当に収集してきてそれをもとに記事を書く。ゆえに、どんなに正確そうな情報を出力しても、薄っぺらく感じるのである。
興味深いことに、小説創作で発見した問題点(強弱の欠如、具体性の不在、経験の欠落)は、技術ブログでもまったく同じように現れる。ジャンルは違えども、「読者に価値を提供する」という本質は同じなのだから、当然といえば当然である。
しかし希望もある。実際、技術ブログプラットフォームのZennもガイドラインで「生成AIを活用して執筆することは禁止していません。著者の皆さまには、より質の高い記事を執筆するために生成AIを活用してほしい」と明言している。重要なのは、AIを「下書きツール」として活用し、そこに自分の経験をちゃんと肉付けしていくことなのだ。
そうした使い方をしている技術者も増えてきた。AIが骨組みを作り、人間が血肉を与える。この協働こそが、新しい時代の文章作成スタイルなのである。プラットフォーム側も理解しているように、問題はAIを使うことではなく、AIに丸投げして雑魚いコンテンツを乱造することなのだ。
人間とAIの新しい関係
AIは新しい筆であり、書き手は人間
登壇の締めくくりで私が強調したのは、AIは新しい種類の筆に過ぎないということであった。いかに優れた筆があろうとも、それだけでは良い作品は生まれないのである。
ここで残酷な真実を述べねばならない。生成AIを使っても、面白くない人間は面白い文章を出せないのだ。面白くない人間が何人集まっても面白い物語は生まれない。たまたま面白いものが出ることはあるかもしれないが、それは偶然の産物に過ぎない。なぜなら、AIに何を指示するか、出力されたものから何を選ぶか、それをどう磨き上げるか、すべては使い手の感性と経験に依存するからである。優れた筆を持っても書道の心得がなければ美しい文字は書けないように、AIという高性能な筆を持っても、創作の素養がなければ読者の心を動かす文章は生まれないのである。
AIが得意とするのは、大量の選択肢を高速で生成すること、文法的に正しい文章を作ること、構造化された情報を整理すること、そして疲れを知らずに作業を継続することである。まことに便利な道具ではあるが、所詮は道具に過ぎない。
一方、人間にしかできないのは、経験に基づいた判断を下すこと、読者との感情的な共感を創出すること、文脈を超えた創造的な飛躍をすること、そして何より「なぜ書くのか」という意味を付与することである。これらは、どんなに技術が進歩しようとも、人間の領分として残り続けるであろう。
興味深いことに、現代のテック企業では、プログラマーはすでに「デジタルワーカーのマネージャー」として機能している。検索エンジンやSNSで実際の作業をしているのは、アルゴリズムやプログラムなのだ。同様に、AI時代の創作者も、AIという「デジタル創作者」のマネージャーとなる。単に命令を下すのではなく、創造的な方向性を示し、品質を管理し、最終的な責任を負う。これは、創作者の役割の終わりではなく、新たな始まりなのである。
この役割分担を深く理解し、適切に協働することで、一人では到達し得ない創作の境地に踏み込むことができるのである。
技芸として身につけるということ
生成AIを使った創作は、まさに新しい楽器を習得するようなものである。最初はぎこちなく、思い通りの音が出ない。しかしながら、練習を重ねることで、少しずつ自分の表現ができるようになっていく。
重要なのは、AIを魔法の道具だと勘違いしないことである。制約を理解し、その制約の中で最大限の表現を追求する。失敗を恐れず、むしろ失敗から学ぶ。自分の経験と感性を注ぎ込んで、生きた文章に変える。
これこそが、私が登壇で伝えたかった「技芸としてのプロンプトエンジニアリング」の真髄なのである。
おわりに
30分という限られた時間では、技術的な手法の説明に多くの時間を割くことになった。しかしながら、本当に伝えたかったのは、その向こう側にある創作の喜びである。
今の生成AIは確かに多くの制約を持っている。しかし、その制約を理解し、創造的に活用することで、新しい物語の形が生まれる。エンジニアが作った道具を、その利便性や限界を理解した上で創作者が使いこなす。その過程で生まれる予想外の発見や、創造的な喜びを目の当たりにできたことは、私にとって大きな収穫であった。何よりも、かつて自分がものづくりをしていた時の感動を思い出させてくれた。
今回のハッカソンは、まさにその理想が体現された場だった。「有意義な集まりを開くために最も必要なのは、目的の設定である」という言葉があるが、ここに集まったのはアウトプットへの強烈な渇望を持つオタクたちであり、わずか数時間で次々と作品を生み出していく光景は圧巻であった。参加者たちは、生成AIという新しい道具を前に、恐れることなく手を動かし続けた。「とりあえず試してみよう」「これ面白いかも」「失敗したけど、この部分は使える」——そんな言葉が飛び交う会場は、就活のためでも履歴書に書くためでもなく、創作への純粋な情熱で満ちていた。
これこそがハッカソンという形式の真価である。完成度よりも実験精神を、批評よりも創造を優先する。参加者全員が「作り手」として対等に立ち、失敗を笑い合い、成功を称え合う。そうした瞬間の積み重ねが、新しい創作共同体を形成していくのだ。
考えてみれば、オタクとは本来、アウトプットへの衝動を抑えきれない人々のことではなかったか。好きなものについて語り、二次創作し、同人誌を作り、コミケで頒布する。その根底にあるのは「作らずにはいられない」という純粋な欲求である。生成AIは、その欲求を解放する新たな回路となりつつある。技術的なハードルが下がることで、より多くの人が「作り手」として参加できるようになったのだ。
思えば、文化や共同体というものは、常に変化し続けるものである。かつて「オタク」と呼ばれた共同体が変質し、消滅したとしても、創作への情熱は形を変えて受け継がれていく。2006年にロフトプラスワンで「オタク・イズ・デッド」が宣言されてから約20年、我々は新しい創作の時代を迎えているのかもしれない(その後の展開もあるが)。
経済史学者James Bessenの研究によれば、産業革命時代の織物工場でも同様の現象が起きていた。熟練職人が機械に置き換えられたとき、実は新しい種類の熟練労働者が生まれていたのだ。重要なのは「Learning by doing」、実践を通じて新しい技術を身につけることであった。
この洞察は、生成AIと創作の関係にも当てはまる。AIは我々の仕事を奪うのではなく、より高次の創造性に集中できるようにしてくれる。プログラマーがAIと協働して新しいソフトウェアを生み出すように、創作者もAIと協働して新しい物語を紡ぐ。どちらも「新しい筆」を手にした人間が、より野心的なプロジェクトに挑戦できるようになったということなのだ。
歴史が示すように、新しい技術が創作を容易にするとき、需要の増加はしばしば雇用の増加につながる。より多くの人が物語を読み、より多くの人が物語を書く。AIは創作者を置き換えるのではなく、創作の可能性を無限に広げてくれるのである。
この記事や発表が、生成AIと創作の間で試行錯誤している方々の一助となれば幸いである。小説でも、技術ブログでも、大切なのは「読者に何を伝えたいか」という根本的な問いである。AIはその表現を助けてくれる道具に過ぎない。
また、制約は創造性の敵ではない。むしろ、制約を深く理解し、それと対話することで、新しい表現の地平が開けるのである。そして何より重要なのは、新しいツールを恐れずに使い続けることだ。「Learning by doing」の精神で、失敗を恐れずに実践を重ねる者こそが、この新しい時代の創作者となるのである。
そして最後に、どうしても伝えておきたいことがある。再三いうがAIという最高級の筆を手にしても、書き手に伝えたいことがなければ、読者の心に響く文章は生まれない。技術の進歩は創作を爆発させるが、同時に「なぜ書くのか」「何を伝えたいのか」という根本的な問いをより鮮明に浮かび上がらせる。生成AIは、面白くない人間を面白くはしてくれない。それは、我々自身が面白くなる努力から逃れる言い訳にはならないのである。
本記事は、2025年6月29日の「#女オタ生成AIハッカソン 2025 夏の陣@東京」での登壇内容を踏まえ、イベントでの発見や登壇では話せなかった内容を中心に書き下ろしたものです。
登壇準備の過程で作成したai-story-forgeというプロジェクトも公開しています。実際のプロンプトテンプレートやワークフローの実装例として、参考にしていただければ幸いです。
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