じゃあ、おうちで学べる

本能を呼び覚ますこのコードに、君は抗えるか

組織の成長に伴う私のtimes の終焉についての思索

さよなら、私の愛したtimes

はじめに

組織が成長する過程で、かつて機能していた構造が限界を迎える瞬間がある。私はおそらく今、その転換点に立っている。長年愛用してきた社内での個人的な発信空間であるtimesチャンネル(組織によっては分報という名前かも)を閉じることにした。これは単なるチャンネルの使用終了ではなく、組織の成長段階における必然的な選択だと考えている。ちなみにあくまで私の考えで私のみが実行しています。また、いつか復活する可能性もあります。

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timesの光と影

小規模組織において、timesや分報などのいわゆるインフォーマルなコミュニケーションチャンネルは組織の血流として機能する心理的障壁を下げ、階層を超えた知識共有を可能にし、暗黙知形式知へと変換する触媒となる。しかし、この美しいエコシステムは、ある臨界点を超えると自己矛盾を抱え始める

スケーラビリティの逆説

組織が拡大するにつれ、情報の流通経路は指数関数的に増加する。全体性の把握は不可能となり、部分最適化が進行する。かつて全員が共有していた文脈は断片化し、同じ組織にいながら異なる現実を生きることになる。

情報の民主化を目指したはずのシステムが、逆に情報格差を生み出す。見える人と見えない人、聞こえる声と聞こえない声。組織の成長とともに、この非対称性は拡大していく。

社内には案件のチャンネル、チームのチャンネル、技術のチャンネルが十分に整理されている。今後の発信はこれらの適切なチャンネルで行うことで、より効果的な情報共有を目指す。

注意経済と生産性のパラドックス

常時接続の環境は、注意力という有限の資源を巡る競争を生み出す。コミュニケーションの活性化が目的だったはずが、いつしかコミュニケーション自体が目的化する。リアクションの数が暗黙の評価軸となり、本来の価値創造から離れていく。

組織内SNS化とでも呼ぶべきこの現象は、生産性向上のためのツールが生産性を阻害するという皮肉な結果を生む。

心理的安全性の両義性

カジュアルさは諸刃の剣である。フラットな対話を促進する一方で、境界線の曖昧さは時に傷を生む。デジタル空間に刻まれた言葉は、文脈を失いながら永続する。過去の自分が未来の自分を、あるいは他者を傷つける可能性を常に孕んでいる。

組織構造をちゃんとやる

最近読んだ『トリニティ組織』(矢野和男著)は、私の決断に理論的な確信を与えてくれた。組織の生産性と幸福度を決定づけるのは、人間関係の「形」だという。自分の知り合い2人同士も知り合いである「三角形の関係」が多い組織ほど、問題解決能力が高く、孤立も生まれにくい

timesの構造について考えると、その限界が明確になる。発信者を頂点に、参加者が個別につながる形 ― これはまさに「V字型の関係」の量産装置である。私のチャンネルを見ているAさんとBさんが、そこでのやり取りを通じて直接つながることは稀だ。むしろ、それぞれが私との1対1の関係に終始する。

リモートワーク環境下では、この構造的欠陥はより顕著になる。物理的な偶発的出会いが失われた今、意図的に「三角形」を作り出す仕組みが必要だ。しかし、個人チャンネルという形式は、その本質において中心化を促進し、分散化を阻害する

一方、チームチャンネルや技術雑談チャンネルでは、参加者同士が自然に相互作用する。同じ疑問に対して複数人が異なる視点でアドバイスし、そこから新たな議論が派生する。これこそが知識の三位一体化であり、創造性を高める組織の在り方だ。

論理的思考の階層性がV字関係を生み出すという洞察も重要だ。分解と整理を基本とする思考フレームワークは、産業時代には機能したが、知識創造の時代には限界がある。生成AIによる知識の民主化が進む今、組織は階層的構造から、より有機的なネットワーク構造へと進化すべき時を迎えている。

私の選択は、V字から三角形へのシフトである。個人の承認欲求を満たす場から、集合知が生まれる場へ。ネットワークのハブとしての自己から、ネットワークの一部としての自己へ。これは単なるツールの変更ではなく、組織内での存在様式の根本的な転換を意味している。

時間という有限資源の配分問題

個人チャンネルはアテンション・エコノミー(注意の経済)」における構造的矛盾を抱えている。組織の成長に伴い、情報チャンネルは線形に増加するが、個人の処理能力は一定のまま。この非対称性は、必然的に選別と排除のメカニズムを生み出す

より深刻なのは、この選別が生む不可視の階層構造だ。物理的空間における排除は可視的だが、デジタル空間における排除は不可視でありながら、より根深い分断を生む。参加の自由が保証されているがゆえに、不参加や選択的参加が生む格差は個人の責任に帰されやすい。

心理的安全性のパラドックス

個人チャンネルは心理的安全性を高めるために導入されながら、逆にそれを脅かす装置にもなりうる。これは、親密性と公開性の両立不可能性に起因する。親密な空間であるがゆえに生まれる無防備な発言は、公開空間であるがゆえに永続し、検索可能となる。

私自身も経験したことだが、他者への批判を目撃することの疲弊は想像以上に大きい社内SNS化した空間では、建設的批判と破壊的批判の境界が曖昧になりやすい。「事実と解釈を分ける」という個人的努力に依存する構造は、そもそも持続可能ではない。

古参メンバーとしての責任

組織の初期メンバーは、文化の形成者であると同時に、その変革の阻害要因にもなりうる。そこまで古参ではないが組織が急拡大しているので相対的に古参である。私の存在が、新しいメンバーにとっての見えない圧力になっていないか。私の発言が、本来生まれるべき多様な声を抑圧していないか。

ここで重要なのは、timesの価値は世代や在籍期間によって大きく異なるという認識だ。若手や入社直後のメンバーにとって、timesは今でも有効なツールとして機能している。組織への順応過程において、インフォーマルな発信空間は心理的安全性を提供し、自己開示を通じた関係構築を促進する。新しいメンバーが組織文化を理解し、自分の居場所を見つけるための重要な装置として、その価値は否定できない。

また、社長や事業部長といった経営層にとっても、timesは別の意味で価値を持つ。階層的な距離が生む心理的障壁を低減し、人間的な側面を共有することで組織全体の心理的安全性を高める効果がある。経営層の思考プロセスや日常的な悩みが可視化されることで、「雲の上の存在」から「同じ人間」へと認識が変わる。これは特に急成長する組織において、上下の分断を防ぐ重要な機能となりうる。

しかし、長く在籍する中間層の一般社員である私の場合、その影響力は異なる性質を持つ。経営層のような明確な役割や責任に基づく発信ではなく、「古参であること」自体が生む見えない権威性が問題となる。この非対称性を自覚したとき、退場もまた一つの貢献となる。若手が自由に発信し、経営層との健全な対話が生まれる空間を守るためにも、中間層の古参は適切なタイミングで身を引く必要がある

個人の節度や自制に依存するシステムは、本質的に脆弱だ。構造的に承認欲求を刺激し、注意力を奪い、関係性を歪めるメカニズムの中で、個人の倫理にどこまで期待できるだろうか。むしろ、そうした個人的努力を不要とする構造へと移行することこそが、組織の進化ではないか。

私のチャンネルには、長年の蓄積がある。試行錯誤の痕跡、成功と失敗の記録、人間関係の履歴。これらは個人にとっての財産であると同時に、組織にとっての負債にもなりうる。過去の堆積が未来の可能性を制約するとき、断捨離は創造的行為となる

生成AI時代における組織内コミュニケーション

知識のオープン化は、組織の存在理由そのものを問い直している。もはや情報の独占や階層的な知識伝達では、価値創造は不可能だ。必要なのは、多様な視点が交差し、予期せぬ組み合わせが生まれる「場」の設計だ。

個人チャンネルは、表面的には情報の民主化に貢献しているように見える。しかし実際には、情報の断片化と選択的可視性による新たな非対称性を生み出している。全体性の把握が不可能な状況下では、部分最適化が進行し、組織は分断される。

これからの組織に必要なのは、個人の発信力ではなく、集団としての知識創造力だ。それは、中心化されたネットワークではなく、分散化されたメッシュとして知識が循環する仕組みから生まれる。個から全体へ、閉鎖から開放へ、所有から共有へ。この転換こそが、知識社会における組織の生存戦略となる。

卒業という選択

すべてのシステムには寿命がある。それを認めることは敗北ではなく、成熟の証である。私にとってのtimesは、その役割を終えた。これは組織の成長を祝福し、新しい段階への移行を受け入れる儀式でもある。

個人チャンネルには組織の成長と反比例する有効性がある。規模の拡大は必然的にシステムの限界をもたらす。これは、あらゆる中心化されたネットワークが直面する普遍的な課題だ。組織の成長を喜びながら、その成長に適応できないシステムに固執することは、成長そのものを阻害する。

興味深いのは、この空間から離脱した時に感じる「喪失感の不在」だ。むしろ、制約がもたらす創造性の向上を実感している。これは、無限の選択肢よりも適切な制約が人間の創造性を高めるという、古典的な原理の現れかもしれない。

「代替可能性」という認識は重要だ。心理的安全性も、知識共有も、偶発的な創発も、すべて異なる構造で実現可能だ。むしろ、より持続可能で公平な形で。

個人的な発信空間から、より構造化されたコミュニケーションチャンネルへ。この移行は、組織が次のフェーズに進むための必要な進化だと信じている。

終わりに

変化を恐れず、執着を手放し、新しい形を模索する。それが成長する組織の中で生きるということだ。

私のこの選択は、単なる個人的な決断ではない。V字型の関係から三角形の関係へ、情報の独占から知識の循環へ、個人の承認欲求から集合知創発。これは、知識社会が求める組織変革の、小さな、しかし確かな一歩だ。

真の課題は特定のツールの有無ではなく、組織における関係性の質にある。健全な組織文化は、ツールを超えて、人と人との相互作用の中から生まれる。

私のこの選択が、組織のコミュニケーション構造について考える一つのきっかけになれば幸いである。

これまでの対話に感謝を込めて。そして、新しい形での再会を楽しみにしている。


参考