じゃあ、おうちで学べる

本能を呼び覚ますこのコードに、君は抗えるか

おい、夢は持たなくてもよいけど、失敗はしろ

はじめに

即答できなかった。 昨日、長崎大学の、学生たちからの問いに。 「AIに負けない人材になるには、何をやればいいですか」と。

何人もの学生が、言い方を変えて同じことを聞いてきた。真剣な目だった。生成AIが自分たちの未来を奪うかもしれない、という空気を、彼らはきちんと吸い込んでいた。その空気の前で、私は言葉を選びきれなかった。自分が答えを持っていないと、そのとき初めて気づいたわけではない。ただ、答えを持っていない、と認めるのに、少し時間がかかった。

講義で使った資料はここに置いておきます。ちなみにAIや夢とか失敗はあまり関係ないです。

会場を出て、夜になった。同僚との飲みにも行かずに、ホテルで1人ブログを書いている。

以前、おい、夢を持たなくても良いぞという文章を書いた。夢を持たなくていい、という話だった。読んだ何人かから、「では代わりに何をやればいいのか」と聞かれた。答えられないまま時間が過ぎた。いつかは応えようと思っていました。昨日、長崎で学生たちの前に立って、その問いがもう一度戻ってきた。だから書く。夢の代わりに必要なのは、自分で選んだ、自分に不相応な挑戦と、その結果としての失敗だ、と書く。たぶん、そうなのだと思うから。

学生時代の私も、似たような場所にいた。AIがまだ、これほど話題ではなかったし危機感もなかった。それでも、「自分には何の強みもない」「同期はみんな先を行っている気がする」「就活のパンフレットに載っているのは自分ではない誰かだ」——そういう夜がいくつもあった。時代ごとに形は違う。20歳前後で将来を考えるときの胃の重さは、たぶん、同じような重さをしている。気がする。これから書くのは、その場所にいた人間が、10年以上かけてやっと言葉にできるようになった答えの、一部だ。

先に、この記事の流れを一つだけ通しておきたい。「AIに負けない」と「夢を持つ/持たない」は、別々の話に見えて、実は同じ構造の話だ。どちらも、他人の物差しで自分を測ろうとする行為である。「AIに負けない」は、AIとの比較で自分を測る。「将来の夢」は、社会が評価しそうな完成像を、自分で先回りして目印にしてしまう。共通しているのは、自分の輪郭を外部の指標に委ねていることだ。この記事の主張は単純で、外部の物差しから降りて、自分の内側の指標——挑戦した事実の数、身体が出してくる嫌いや違和感、気分の下にある動力——で自分を測り直そう、というものになる。AIの話と、夢の話が、この先も交互に出てくる。どちらも、内側の指標を取り戻すための、角度違いの入り口だ。

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「AIに負けない」は悪い問いだ

長崎で学生が聞いてきた問いを、もう一度並べます。「AIに負けない人材になるには、何をすればいいか」。真剣な問いです。将来への不安から来ている。だからこそ、この問いに答える前に、問いそのものを疑う必要があります。

この問いには、隠れた前提が3つあります。1つ目、AIと人間は同じ土俵で戦う、という前提。2つ目、勝ち負けが明確に決まる、という前提。3つ目、負けた側は不要になる、という前提。どれも、よく見るとあやしい。

3つとも、過去の技術史を見れば崩れます。電卓が出たあとに暗算の達人が駆逐されたわけではなく、検索エンジンが出たあとに物知りが消えたわけでもない。職能の中身がずれた、というのが正確な記述です。AIについても、たぶん同じことが起きる。ずれた後の地形で、自分がどこに立つかが問題であって、勝ち負けではない。

「負けない」を動力にした挑戦は、だいたい防御になります。守備的な挑戦は、失敗しないように調整された挑戦です。失敗しないから、学習も起きない。AIに追いつかれないように、AIが苦手な領域に逃げ続ける、という戦略で一生やりきれる人はほぼいません。逃げる方向を探すよりも、進む方向を自分で決めたほうが長持ちする。

もう一歩、この問いが生まれる構造を掘ります。「AIに負けない人材になるには」と学生が即答を求めるのは、現代の情報環境と無関係ではありません。スマホを開けば、わかりやすい刺激がいくらでも流れてくる。不安を感じた瞬間、その不安を埋める情報に即座にアクセスできる。退屈や寂しさに留まる時間が、極端に短くなっている。その慣性で、将来への不安も「即答」で処理しようとしてしまう。「AIに負けない」という問いへの即答が欲しくなる背景は、この常時接続の習慣の延長線上にある気がします。

本当は、この問いに即答してはいけないのです。即答してしまうと、問い自体が消費されて、考える時間が失われる。ここで必要なのは、答えを急がず、問いに留まり続ける時間です。問いを問いのまま抱えていられる期間こそが、自分なりの答えを作る土壌になる。SNSに答えを求める、AIに答えを求める、先輩に答えを求める。これらは全て、問いを早く手放すための装置です。問いを手放した人間は、自分の答えを持てません。

もう少し別の角度から、この問いを崩します。私はこの1年、AIが入った開発現場を見ながら、むしろ逆のことが起きると思っています。1人のエンジニアが前より2倍、場合によっては10倍動けるようになると、これまでは「そこまで金をかける話ではない」と切られていた企画が、急に現実の案件になります。すると仕事は減るどころか増える。効率が上がると、使い道のほうが膨らむからです。名前をつけるならジェボンズのパラドックスですが、私には、いまのソフトウェア産業でかなり露骨にそれが起き始めているように見えます。

この構造は希望的観測ではなく、需要と供給の単純な話です。生産性が上がると、やれることの総量が増える。やれることが増えると、作りたい人の数も増える。「AIに仕事を奪われる」というストーリーは、需要が固定されている前提でしか成り立ちません。実際には、供給能力が増えると、需要のほうも膨らむ。昨日、長崎でもこのこと自体には触れました。けれど、触れただけでした。なぜそう言えるのか、なぜ悲観しきらなくていいのかを、相手の不安を押し返せるだけの言葉と概念にまで落とし切れなかった。そのことが、今もかなり悔しい。

不相応な挑戦をしろ

では、拡大する需要に自分の側を合わせるには、何が必要か。ここからが本題です。AIが出てきた世界で必要なのは、防御ではなく、不相応な挑戦です。自分の身の丈に合った挑戦では、たぶん足りない。

「身の丈に合った目標を立てよう」と、露骨に言われることは、たぶんそれほど多くありません。実際にはもっと地味です。失敗するのが怖いから、達成可能な小さな目標を、自分で先回りして選んでしまう。就活なら、本当は気になっている会社があるのに、落ちるのが怖くて「受かりそうな企業」ばかり受ける。恋愛なら、振られるのが怖くて、自分からは動かない。そういう人生は、たしかに大怪我は減るかもしれない。でも、良い結果や、予想外に良い結果も、同じように起こりにくくなる。待っているだけでうまくいく人も、たまにはいるのかもしれない。けれど、それは自分で選び取れる戦略ではありません。しかも、目標は結果だけでなく、日々の習慣も決めます。落ちないことを優先した目標は、落ちないための習慣を育てる。逆に、少し背伸びした目標は、調べる、頼る、出す、記録する、といった習慣を育てる。良い目標は、良い習慣につながる。悪くない。悪くないけれど、身の丈の内側を往復しているだけでは、身の丈そのものは広がりません。身の丈は、外側に手を伸ばして、届かずに失敗したときにだけ、ゆっくりと広がる。

不相応とは何か。3年早い挑戦です。今の自分には無理だと、自分のほうが先に判断してしまう挑戦です。手を挙げる前から「まだ早い」と手を引っ込めたくなる種類の挑戦です。それをやる。やって失敗する。失敗したあと、どこまで届いたかを見る。届かなかった距離が、自分の現在地からの伸びしろになる。

長崎の学生に、私はこう返すべきだったと今は思います。「AIに勝つ方法を考えるな。代わりに、今の自分に3年早い課題を1つ選べ。選んで、1ヶ月だけ本気で取り組め。1ヶ月後、惨めに失敗しているはずだ。その惨めさが、お前を伸ばす」。

自分の話を1つ書いておきます。私はマルチエージェント開発に、たぶんいち早く取り組んだうちの1人です。複数の専門化AIエージェントが役割分担して動く仕組み、Git worktreeで隔離された並列開発環境、エージェント同士がやりとりするメッセージバス、エージェントの合議で意思決定をするSangha投票(複数のエージェントが提案を投票で評価する機構)。設計は派手でした。Rustで書きました。OSSとして公開したところ、100を超えるスターがつきました。数字だけ見ると、そこそこの評価です。

github.com

でも、びっくりするぐらい失敗しました。

オーケストレーションの中核ループが実装しきれなかった。並列実行のフレームワークは作ったけれど、オーケストレータとの連携は部分的。マルチプロバイダは5つ実装したけれど、実行はキーワード基盤のシミュレーションで止まっている。Sangha投票は、データ構造だけが宙に浮いている。設計は99%、実装は30%。動作は不安定です。条件が揃えば動く、揃わないと止まる。誰かに「これ、ちゃんと動くのか」と聞かれたら、「動く。ただし、祈れ」と答えるしかない種類の失敗です。「完成しなかった」のではなく「完成の一歩手前で、安定性が足りないまま世に出した」。失敗の形は、この微妙な線引きで決まります。

ここで大事なのは、私はこの失敗を「悪い失敗」とは捉えていないということです。あとで詳しく書きますが、失敗には「取りに行く失敗」と「減らす失敗」の2種類があります。ccswarmの失敗は、前者のど真ん中です。未知の領域に、時代より早く踏み込んだ。設計は追いついたが、実装が追いつかなかった。単純なミスや手順の無視ではなく、誰もまだ答えを持っていない領域での躓きです。この種類の失敗は、学習効率が異常に高い。「マルチエージェント・オーケストレーションの本当の難しさはここだ」という解像度が、設計書を読んでいただけの自分とは比較にならないレベルで入ってきました。これから誰かがマルチエージェントをやろうとするとき、私には見えるものが見えています。びっくりするぐらい失敗したから、見えるようになった。

学生にまず伝えたいのは、この規模で失敗してもいい、ということです。むしろ、この規模の失敗を怖がる人は、時代の先端を掴めません。「失敗したら笑われる」「失敗したら就活で不利になる」と思うかもしれない。正直に書きますが、履歴書に書いたときに評価されるかどうかは、環境次第です。失敗実績を「解像度の証拠」と読める会社もあれば、「汚点」と見る会社もある。そこは私にはコントロールできない。ただ、あなた自身の内側に残る解像度は、環境に関係なく積まれます。失敗の「大きさ」ではなく、失敗の「種類」で自分を評価する。外の評価に振り回されず、自分の内側の解像度を自分で数える。それができれば、長期で見ると、環境のほうが追いついてきます。

もう1つ、だいぶ前の話も足しておきます。数年前、Rustでコードのカップリングを分析するツールを自作しようとしました。マクロの知識は足りず、AST解析も初めて。週末をほぼ全部つぎ込んで、3ヶ月かかって、8割完成のまま止まっています。誰にも使われていない。これも「びっくりするぐらい」ではないですが、完成しませんでした。ただし、その3ヶ月で「Rustの何が好きで、何が嫌いか」が初めて身体で分かった。ドキュメントを読んで「なるほど」と思うのと、自分で書いて詰まって「なるほど」と思うのは、まったく別の解像度です。完成しなかったことで、当時の私は数ヶ月自分を責めていました。3年経って振り返って、やっと「あれは失敗ではなかった」と言えるようになった。取りに行った失敗が自分に効いていたと気づくまでに、3年かかったわけです。

ここで1つ、安心材料があります。AIがいる時代の強みは、不相応な挑戦のコストが下がっていることです。3年前には1人で組めなかったシステムが、今なら組める。3年前には読めなかった論文が、今なら解読できる。3年前には書けなかった言語が、今なら書ける。AIは敵ではなく、不相応な挑戦の成立条件を変える装置です。使わない手はない。

コストだけでなく、挑戦のスピードそのものも変わっています。領域によっては、以前なら資金調達から製品完成まで9ヶ月かかった挑戦が、今は数日で形になる。1人が、以前のチーム数ヶ月分の成果を、数週間で出すケースも珍しくない。この変化は「製品」の概念を壊しつつあります。プロダクトはもう固定された成果物ではない。毎週、ときには毎日変わる生き物に近づいている。試して、壊して、作り直す。この循環の速度が、体感で一桁上がっている。

この速度は、遊びと実験の余地を広げます。資本効率を最適化する発想では、不相応な挑戦は選べません。最短ルートではないからです。でも、試行のコストが劇的に下がった世界では、最短ルートを外れて遊んだほうが、結果的に面白い成果が出ます。長崎の学生たちに必要なのは、効率ではなく、遊びと失敗の許容量です。

挑戦した事実で測れ

不相応な挑戦を続けるには、もう1つ変える必要があるものがあります。自分を測る尺度です。尺度が「成果」のままだと、不相応は怖くて選べません。

成果で測る尺度は、わかりやすい。昇給、役職、著作、登壇。社会はこの4つを並べて序列を作ります。ただ、この尺度は、ある時点の静的なスナップショットでしかない。明日にはずれるし、AIが来ればさらにずれる。静的な指標を追いかけると、地形の変化に置いていかれます。

ここで、もう一段深い話をします。人生のスパンで眺めると、目の前の成功も失敗も、小さすぎる。今月のプロジェクトの成否。今年の評価の上下。あの転職の当たり外れ。5年経てば、どれも輪郭がぼやけます。10年経てば、中身をほとんど覚えていない。ひとつひとつの勝ち負けは、そのくらい小さい。

では、小さくないものは何か。「自分は挑戦した」という事実そのものです。

成功と失敗は、挑戦に付随する副産物にすぎません。挑戦した人間の記録には、成功も失敗も両方含まれる。挑戦しなかった人間の記録には、どちらも含まれない。長いスパンで効いてくるのは、成功の数でも失敗の数でもなく、挑戦の数のほうです。

だから、数えるべきものが変わります。私が本当におすすめしたい尺度は、「今年、自分に不相応な挑戦を何回したか」です。結果は問わない。成功したか、失敗したか、途中で中断したか、それは数えなくていい。ただ、挑戦した、という事実の数を数える。

こう言い換えると、抵抗が減るはずです。失敗を数える、は心理的に重い。多くの人は失敗を数えたくない。でも、挑戦の数なら、数えられる。成功と失敗の内訳はあとから見ればいい。まず、挑戦の総量を数えること。これが全ての起点です。

過去1年で、自分が「これは無理かも」と思いながら始めたプロジェクトは、何件ありましたか。ゼロに近い人は、挑戦が足りていない。10件を超えている人は、もう十分です。目安は、月に1件、不相応な挑戦を始める。結果はどうでもいい。挑戦した事実を年12件積む。これを3年続ければ36件、5年で60件。この数が、あなたの輪郭になります。個別の成功や失敗は、この総量の前ではノイズに近い。

自分の数字も開示しておきます。過去1年、自分が始めた不相応な挑戦をメモから数えると、14件ありました。完成3件、途中で降りたもの7件、今も進んでいるもの4件。完成率は21%。言い換えれば、5件始めて4件は途中か、死んでいます。数え始めるまで、私は「今年は挑戦が足りていない」と焦っていました。数えてみたら、そこそこ積んでいる。焦りの正体は、2つあった。1つ、挑戦を記録していなかったから、半年前の挑戦を忘れていたこと。もう1つ、SNSに流れてくる他人の成功と比較していたこと。数えた瞬間、焦りが消えた。正確には、焦りが「数えていないこと」に置き換わった。数えていれば、焦る余地はありません。

ここから自然に、姿勢の話に移ります。成功しても驕らず、失敗しても落ち込まない。と言いたいところですが、正直に書きます。私自身は、落ち込む側の人間です。ccswarmが期待通りに動かなかった時、1ヶ月手が止まりました。SNSで他人の成功を見て、数日気分が沈むこともあります。つまり、私はまだこの姿勢を体現できていない。それでも目指しています。1つの成功で舞い上がる人は、次の挑戦を選ぶときに慎重になりすぎる。1つの失敗で落ち込む人は、次の挑戦の前に手が止まる。どちらも、挑戦の総量を削る動きです。成功も失敗も、あなたより小さい。小さいものに上下する必要はない、と頭では分かっていても、身体は上下する。上下してもいい。ただ、上下したまま次の挑戦を積めることが、長距離走の条件です。

ただし、生活や健康を削るほどの挑戦は、この数えから除外します。挑戦の総量は、あくまで「続けられる範囲」で積むこと。1回で潰れる挑戦は、統計には入りません。

もう1つ、挑戦の総量を積むうえで必要な能力があります。不確実性に耐える力です。不相応な挑戦の最中は、答えが出ない時間が長い。うまくいくのか、いかないのか、どちらとも言えない期間が数週間、数ヶ月続く。多くの人は、この宙吊り状態に耐えられなくて、早めに答えを出してしまう。「これは失敗だ」と決めつけて降りる、あるいは「これは成功だ」と無理やり結論づけて満足する。どちらも、不確実性から逃げた結果です。

今の時代、不確実性に耐える訓練の機会は減っています。スマホを開けば、わかりやすい刺激がいくらでも流れてくる。退屈や不安や寂しさを、刺激で即座に埋められる。「AIに負けない」という問いに即答が欲しくなるのも、この習慣の延長線上です。答えの出ない問いに留まる時間そのものが、減っている。

挑戦の総量を積む人は、この流れに逆らいます。答えが出ないまま、挑戦を続ける。宙吊りのまま、次の一歩を出す。これができる人は、成功にも失敗にも揺さぶられにくくなります。挑戦の数だけが、静かに積まれていく。

ここで一つ重要なことを書き添えておきます。挑戦した事実を数えるなら、記録をつけること。記録がなければ、自分が何回挑戦したかは、半年もすれば消えます。記憶は挑戦を忘れるようにできている——成功しなかった挑戦は、特に忘れる。だから記録する。日報でも、週報でも、雑なメモでもいい。1年後に振り返れる形で残す。記録がない挑戦は、統計に入らない挑戦です。数えたつもりになっているだけで、実は数えていない。

良い失敗と悪い失敗を分ける

「失敗を数えろ」と言うと、すぐに反論が来ます。「どんな失敗でもいいのか」「不注意で起きた失敗も数えるのか」。当然の疑問です。失敗には、取りに行くべきものと、避けるべきものがある。この区別を先にやっておかないと、「失敗しろ」という命令は雑なまま残ります。

私の整理では、失敗は大きく2つに分かれます。

  • 取りに行く失敗: 未知への挑戦で起きる失敗。自分の知識の外側に手を伸ばしたから起きた失敗。成長がこの種類の失敗の上にしか乗らない
  • 減らす失敗: 単純な不注意、手順の無視、確認不足から起きる失敗。過去の繰り返し。学習が伴わず、被害だけが残る

「身の丈の内側を往復して得られる失敗」は、基本的に後者です。既知の領域での単純ミス。これを積み上げても、センスは育たない。不相応な挑戦は、構造上、未知の側に踏み込む。だから、不相応な挑戦からの失敗は、取りに行く価値のある失敗になりやすい。

もう少し抽象化して言い換えると、失敗は3つの場所で起きます。世界の外側で起きる失敗自分の未熟さとして起きる失敗関係や構造の中で起きる失敗です。細かく割れば、いくらでも増やせます。ただ、現場で読むなら、私は7つくらいで止めるのがちょうどいいと思っています。7つというのは真理の数ではなく、どこに手を入れるべきかを見誤らないための作業用のラベルです。

  1. 未知にぶつかった失敗——まだ誰も答えを持っていない場所に手を出して外した
  2. 無知が露呈した失敗——答えはあったのに、自分がまだ知らずに外した
  3. 実行が雑だった失敗——知っていたのに、確認不足や手順抜けで落とした
  4. 解釈を外した失敗——情報の取り方や読みが浅く、見立てを誤った
  5. 前提が動いた失敗——要件、制約、状況が変わり、途中で土台がずれた
  6. 問いの立て方を誤った失敗——何を作るか、何のために作るかの置き方そのものがずれていた
  7. 協働が詰まった失敗——分担、意思決定、責任境界、伝達が噛み合っていなかった

1と2は、外へ伸びたときにしか出ない失敗です。だから取りに行く価値がある。3は、同じ授業料を何度も払う必要のない失敗なので、減らす。4は、自分の癖や未熟さがいちばん出る層なので、記録と振り返りで磨いていく。5は、自分が悪かったのか、現実の側が動いたのかを切り分けて読む必要がある。6と7は、個人の気合いだけで押し切るほど再発します。問いの立て方、設計の切り方、チームの回し方まで含めて直さないといけない。

だから「失敗しろ」は、乱暴に聞こえるけれど、本当はかなり細かい命令です。未知と無知の失敗は取りに行け。実行の雑さは減らせ。解釈、前提、問い、協働の失敗は、構造として読め。 不相応な挑戦は、自動的に1と2の領域へ踏み込みやすい。だから、不相応を選ぶ、というルールだけで、取りに行くべき失敗の向きはかなり定まります。

失敗は減衰する、だから早く失敗しろ

失敗を数える、という話を、もう1つ別の角度から続けます。失敗には「伝達」の問題があります。失敗の教訓は時間とともに減衰するのです。当事者から離れるほど教訓は薄れる。組織が変われば、さらに薄れる。世代が変われば、ほぼ消える。だから失敗は意識的に記録し、共有し、継承しないと、同じ失敗が繰り返されます。

これは個人のキャリアにも当てはまります。若いうちの失敗は、体感として強く残ります。深夜に泣きながらコードを書き直した経験、プレゼン資料を前日にゼロから作り直した経験、システムを壊して全員を呼び出した経験。どれも10年経っても身体に残る。

逆に、30代40代になってからの失敗は、減衰しやすい。責任の中で失敗は隠される。大人になるほど、失敗を表に出さない知恵が身につく。身につくのは悪いことではないけれど、その副作用として、失敗からの学習量は年齢とともに落ちていきます。

だから若い人には、こう言いたい。失敗しやすい時期に、失敗の質と量を稼いでおけ。後から同じ失敗をしようとしても、周囲の目と責任の重さで、できなくなる。長崎の学生たちは、たぶん人生で一番失敗しやすい時期にいます。この時期の失敗は、利子がついて返ってくる。

もう1つ、ここで区別しておきたいことがあります。「成長」と「成長実感」は別物です。若いうちの失敗には、往々にしてタイムラグがある。渦中にいるときは、地味で、退屈で、「成長していない」と感じる。振り返って3年後、5年後に「あれが効いていたのか」と気づく。このタイムラグに耐えられない人は、「成長実感がない」を「成長していない」と誤読して、環境を変えてしまう。刺激と成長は違う。新しい環境に移れば、毎日新しいことを学ぶ「刺激」はある。ただし、刺激は消費されて消える。成長は積み上がる。失敗の総量を数える、というのは、この積み上がりを可視化する装置でもあります。

希少資源は「センス」に移っている

では、若いうちに失敗の質と量を稼いで、その結果として何が自分に残るのか。残るべき能力の正体を言語化します。AIがコードを書き、エージェントが作業を進める世界で、人間に残る希少資源は何か。私はここでは「センス」という言葉で考えています。設計判断、概念的な一貫性、「これは違う」と気づく感覚。どれも、コードを書く手作業よりも1段上位の能力です。

ここで言うセンスは、流行に詳しいとか、かっこいいものを選べるとかいう話ではありません。天性のひらめきでもない。もっと泥くさい。情報が不完全で、正解がまだ定義されていない場面で、何を採って、何を捨てるかを決める判断力です。一般原理を機械的に当てはめる力ではなく、具体的な状況の中で、複数の価値の衝突をさばく力と言ったほうが近い。

設計に引きつけて言えば、センスとは「この機能は何をするか」だけではなく、責務の切れ目を見る力です。変更の波がどこまで伝播し、全体の釣り合いがどこで崩れるかを見る力でもある。意味だけでなく、配置と流れを見る力。私がこの言葉を使いたくなるのは、技術選定やレビューの場で、理由になるより先に身体だけが「ここで切るべきだ」「これは後で腐る」と反応する瞬間が何度もあったからです。

コードの扱い方そのものが変わり始めています。以前、コードは「彫刻」でした。1行1行を削って、形を整える。書いた人間の跡が残る。いまは違います。コードはもっと液体に近い。蛇口をひねれば、一定の品質のものが出てくる。量は無尽蔵です。個々のコード行を長時間眺める意味が、相対的に薄れた。代わりに、何を出させるか、出てきた全体が成立しているか、ここに判断の比重が移りました。プログラミングは死にません。コード記述からシステム設計へ、タイピングからセンスへ、個人の英雄的作業からオーケストレーションへ、重心がずれているだけです。

ただし、センスは単なる気分でもありません。「なんとなく嫌だ」で始まっていいけれど、掘っていけば、責任境界、変更容易性、時間軸、運用コストのどこかに理由がある。身体が先に反応し、言葉があとから追いつく。この順番で立ち上がる判断が、現場では案外多い。だからセンスは、私的な好き嫌いではなく、あとから他人に通るかたちへ育てていくべき判断でもあります。

組織論では、こういう作業をsensemakingと呼びます。私はこの言葉を、もっと地味な作業として理解しています。現場では、最初から「何が起きているか」を説明できることなんてほとんどない。曖昧な出来事からいくつか手掛かりを拾って、「たぶんこういうことだ」という仮の筋を作る。その筋を足場に次の一手を出す。外れたら、また作り直す。現場でセンスと呼びたいものの大きな部分は、この往復です。最初から厳密に正しい説明を持つことではなく、まず次に動けるだけの筋を作れることです。

センスは、本で読んで身につく種類のものではありません。知識は材料にはなるが、それだけでは判断にならない。何度も「これは違う」と感じて、違った理由を言語化して、次に活かす。この反復だけが、センスを育てる道筋です。そして、この反復を回すには、不相応な挑戦と失敗が必要になる。センスを育てる栄養は、失敗の総量です。失敗していない人のセンスは、受け売りの平均値にしかならない。

自分のセンスが先に働いた具体例も1つ書いておきます。あるプロジェクトで、チームが選ぼうとしていたORMに対して、私は最初から「これはまずい」と身体が言っていました。ただ、理由を言葉にできなかった。押し切れないまま導入され、半年後、まずいの中身が全部出てきました。トランザクション境界、N+1クエリ、スキーママイグレーション。3箇所で詰んだ。私のセンスは、言語化の半年先を歩いていたわけです。

ただし、この話には続きがあります。そのセンスが当たっていたとしても、言語化と通しの技術が伴わないと、センスは「違和感のまま終わった話」になります。あのとき、私にはセンスがあって、言語化が足りなかった。チームは押し切られた側ではなく、私が押し切れなかった側です。だからセンスを育てる訓練と並行して、センスを言語化して他人に通す訓練もいる。センスだけでは、仕事は動きません。

長崎の学生が「AIに負けない」ための具体的な訓練は、コードを速く書くことでも、特定のAPIを暗記することでもありません。センスを育てることです。どのAPIを選ぶか、どのアーキテクチャが腐るか、どのコードが半年後に後悔するか。これを何度も外して、外した理由を記録する。こうした訓練が、AIに吸収されにくい能力を作る中心にあります。

ここで1つ補足します。能力は文脈の中にしかない、ということです。今の環境でセンスが働いているとき、それはあなた1人の中にあるのではなく、あなたとその文脈の組み合わせの中にある。上司が調整してくれている、先輩が地雷を教えてくれている、チームが暗黙知を共有している——その前提の上で、あなたの「これは違う」が機能している。文脈が変わると、同じセンスが同じように働くとは限りません。だからセンスを育てるときは、自分の判断がどこまで文脈に依存しているかを、意識的に切り分ける必要があります。文脈を剥がしても残る判断だけが、本当にポータブルなセンスです。

他人の夢で失敗しても、何も残らない

ただし、センスを育てる失敗と、育てない失敗があります。ここで失敗の質をもう1つの角度から分けておきます。失敗なら何でもいいか、というとそうではありません。分岐点は、自分で選んで失敗するかどうか。この一点です。

自分で選んだつもりでも、実際には他人の語彙を借りた夢で失敗すると、残るのは恨みに近いものです。「あの上司の言う通りにしたのに」「親が喜びそうだったから選んだのに」「時代がそういう流れに見えたから」。不安を避けるために外の物差しへ寄せた選択ほど、失敗したときに学びが自分へ返ってきにくい。外部に原因があるなら、自分の輪郭は変わらない。変わらないなら、学習は起きない。

自分で選んで失敗すると、言い訳が効きません。誰も悪者にできない。全部が自分の判断の結果として返ってくる。これは痛いけれど、だからこそ輪郭が浮かび上がります。「自分はこの種類のリスクに弱い」「自分はこういう状況でパニックになる」「自分はこの文脈では判断を誤る」。こういう情報は、自分で選んで失敗した人にしか手に入らない。

正直に告白すると、私は20代の前半、他人の夢で失敗することが多かった。最大の1つは、当時流行していた分散処理基盤に首を突っ込んだことです。「この技術をやっている人が成功しているから」という外部参照だけで選んだ。1年半やりました。技術そのものは身につきました。ただし、動機のないまま身につけた技術は、使い所を自分で見つけられない。流行が移った瞬間、価値はゼロに近いところまで戻りました。

その1年半は、私のキャリアで学習効率が最も悪かった期間です。時間だけを使って、自分の輪郭は何も描けなかった。残ったのは、「自分を選び間違えた」という感覚と、流行の技術を1つ追加で知っているという、ほとんど誰の役にも立たない実績だけでした。このときに気づけばよかったのに、気づけたのは30代に入ってからです。5年遅かった。

学生の文脈で言い換えると、これは「就活で評価される進路」「親が喜ぶ研究室」「同期が目指している企業」を、安全そうだからと自分で選んでしまう場面です。露骨に命令されるわけではない。けれど、不安なときほど、周囲の語彙を借りたほうが楽に決められる。そうやって進路を決めると、進んだあとで「なんでここにいるんだろう」が出てきます。この問いが出てきた時、答えられないのが、他人の夢で選んだ証拠です。自分で選んだ場合は、少なくとも「これを選んだ理由」を自分の言葉で言えます。言えない選び方は、数年後に取り返しがつかなくなる。学生のうちに進路の言語化を1度やっておくと、5年分の時間が節約できます。私はそれをやらなかった側の人間です。

長崎の学生が「AIに負けないためには」と問うとき、その問いはすでに、自分の外にある価値観をかなり内面化した形になっています。「AIに負ける」という恐怖は、社会が流している物語です。「将来の夢を持っていたほうが安全だ」という感覚も、別の物語です。問題は、誰かに直接そう命じられることより、不安なときほどその物語を自分で引き受けてしまうことにある。すると、「将来の夢」に向かって走りながら、途中で「AIに負けないか」と怯える、という二重の自己管理が始まる。記事の冒頭で書いたとおり、両方とも同じ構造です。外の物差しを、自分の内側に住まわせている。

この内面化した物差しのまま挑戦を選ぶと、失敗しても何も残らない。まず、自分が本当にやりたい不相応を、自分で名指しする。そこから始めないと、失敗の元手にもならない。AIに勝つとか負けるとか、夢を持つとか持たないとか、それ以前に、誰の物差しを自分が握っているつもりになっているのかを確認する。これが、他律から自律に移る最初の1歩です。

「嫌い」は夢より信頼できる

「自分で選べ」と言われても、何を基準に選ぶかがわからない、と返ってきます。選ぶための羅針盤の話をします。失敗を重ねると、あるタイミングで自分の「嫌い」が見えてきます。これが、夢より信頼できる情報です。

「好き」は社会的な言語で汚染されやすい。「やりがい」「情熱」「ビジョン」。こういう言葉の周辺には、周囲の期待や流行が混ざりやすい。本当に好きなのか、好きだと言っておくと都合がいいのか、見分けがつかなくなる。

「嫌い」は違います。身体が先に喋ります。頭が「まあ大丈夫」と言っている横で、胃が「帰りたい」と言っている。会議に入る前に胃が重くなる。この種類の人と話すと肩が凝る。この文脈のタスクは、いつまでも後回しにする。身体のほうが、いつも先回りしている。これは自分の意志で捏造できません。社会が「嫌いになるべきだ」と教えてくれるわけでもない。だから「嫌い」は、自分の原型に近い。

私の例で話すと、数年前、大きな組織で承認フローを通す種類の仕事が回ってきたとき、朝その仕事に取りかかる前の胃が、ずっと重かった時期があります。業務内容は分かる、手順も分かる、誰が何を決めるかも分かる。それでも身体は嫌がっていた。数ヶ月続いて、初めて「自分は、構造化された承認フローそのものが嫌いなんだ」と気づきました。理由ではなく、身体が先に答えを出していた。この「嫌い」を認めた後、私は技術選定の場面で、意識的に「承認が少なくて済む方向」「小さく始められる方向」を選ぶようになりました。自分の原型が1つ、可視化された瞬間でした。この気づきは、キャリアを決めたレベルの情報です。ただし、気づくまで数ヶ月かかりました。身体の声は小さい。拾う訓練がいります。

学生のうちにも、同じ種類のシグナルは出ています。例えば、大人数の飲み会に参加した翌日、ぐったりして半日使い物にならない。ある授業のグループワークだけ、妙に疲れる。特定の先輩と話した夜だけ、眠りが浅い。こういう身体反応を、「自分は社交性がないダメな人間だ」と解釈してしまうのはもったいない。ダメなのではなく、単純にその場面が嫌いなだけです。嫌いは性格の欠陥ではなく、自分の原型の地形図です。私自身、学生時代の自分に戻って声をかけられるなら、「その胃の重さをダメ出しとして受け取るな。地図として記録しておけ」と言います。地図を持って就活や研究室選びに入るのと、持たずに入るのとでは、その後の5年が全く違います。

「嫌い」の反対側にあるのは「好き」ではなく、深さの偏りです。多くの人は、自分の興味を「どのくらい強く惹かれるか」で測ろうとします。強さは当てになりません。強さは気分で上下します。代わりに、「時間が溶ける場所」で測る。ほかの人が5分で飽きる話題を、自分は30分粘れる。ほかの人が効率で選ぶ場面で、自分は非効率だと分かっていても特定のやり方を選んでしまう。気づいたら時計が進んでいる、その場所が、自分の原型の別名です。

偏りは隠れています。平均化された自己認識の下に埋まっている。「私は〇〇に興味があります」と言えるレベルの自覚ではなく、自分でも気づかない癖の集積として存在します。だから、言葉で問われても答えられません。時間の使い方でしか現れない。履歴書には書けないし、自己分析シートにも書けない。不相応な挑戦を長く続けていると、ある日、ログが勝手に示してくれます。「この時間帯、この作業、この話題のときだけ、異常に長く座っている」。このログが、自分の深さの偏りの輪郭です。

失敗は、この「嫌い」を洗い出す装置です。やってみて初めて「これは嫌いだ」とわかる。事前にわかることは、ほとんどありません。想像の嫌いと、体験の嫌いは別物です。想像の嫌いは偏見で、体験の嫌いは情報です。

もう1つ、「嫌い」の近くにある感覚として「退屈」があります。退屈は、今の時代では即座に刺激で埋められてしまう感覚です。手が空いた瞬間にスマホを開く、会議が長くなった瞬間に別タブを開く、夜に1人になった瞬間に動画を流す。退屈に留まる時間が、どんどん消えている。でも、退屈は情報です。刺激と刺激の合間にしか、退屈は立ち上がってこない。そしてその隙間から立ち上がってきた退屈には、「この仕事は自分に合っていない」「この環境はもう限界だ」「今の自分は本当の興味から外れている」といった低解像度のメッセージが乗っている。退屈は、電波が弱いラジオのようなものです。ザーッとしたノイズの向こうに、かすかに自分の声が混ざっている。耳を澄まさないと聞こえない。スマホを開いた瞬間、電波は消えます。

退屈を刺激で埋めてしまうと、このメッセージは受信されないまま消えます。何年か経って振り返ったときに、「あれは自分が退屈していた時期だった」と気づく。気づいた時には、何も動かしていない。だから、退屈にも留まれるといい。「嫌い」と同じ種類の、身体からの低解像度メッセージとして、退屈を扱う。刺激で埋めず、退屈の形を観察する。そこに、次の挑戦のヒントが入っている。

不相応な挑戦というのは、実は自分の中の空白と、長く付き合う作業でもあります。答えがすぐ出ない問いと、数週間、数ヶ月つきあう。その間、身体は「嫌い」や「違和感」や「退屈」の形でシグナルを送ってくる。それを言葉にしていくことで、自分の輪郭が少しずつ描かれる。挑戦は、解答を得る活動ではなく、自分の中で解けないでいるものと、長く同じ部屋にいる活動です。解けない時間の長さが、自分の輪郭の濃さになる。早く解こうとする人は、輪郭を描き損ねます。

AIに負けるかどうか、という問いに戻ると、答えはこうなります。自分の「嫌い」の輪郭は、AIには代替できない。なぜなら、それは自分の身体が出力した固有の情報だからです。失敗を積み重ねて「嫌い」の輪郭を描けた人は、AIがどう進化しても、自分が立つ場所に迷いません。夢より、「嫌い」のほうが、はるかに長持ちする。

さらに言えば、「嫌い」や「違和感」は、次の挑戦の種になります。身体が「これは違う」と言った瞬間、それは実はすでに生データです。まだ言葉になっていないだけで、そこには「何がどう違うのか」の情報が詰まっている。多くの人は、この生データを拾う前に捨てます。「嫌な気分になった」「モヤッとした」で片づける。もったいない。その瞬間に、立ち止まる。何が引っかかったのかを、不完全な言葉でもいいから書いてみる。書いた瞬間、生データは仮の仮説に変わります。仮説になった瞬間、それは試せます。動かしてみる。動かした結果、仮説が当たっていたか、外れていたかが、次の解像度を上げる。

ここで必要なのも、結局は同じ作業です。違和感から手掛かりを拾い、「たぶんこういうことだ」と仮の筋を立てる。その筋を次の挑戦の足場にする。最初からきれいに説明できなくていい。次に一歩出せるだけの仮説なら、それで十分です。

このサイクルを回せる人は、他人が処方したロードマップを待たなくても、自分で挑戦を生み出せます。AI時代に本当に必要なのは、ロードマップを速く走る力ではありません。ロードマップを自分で作れる力です。そして、そのロードマップは、身体からの生データの集積から立ち上がります。嫌い、違和感、退屈、なぜか気になる、なぜか手が動かない。そういった小さな反応の積み重ねです。言い換えると、自分のロードマップは、身体が書く。頭ではなく、身体が。頭は、身体が書いたものを翻訳する役です。

小さな失敗でいい、ただし不相応でいい

「嫌い」を掘り出すために、どの規模の失敗を選ぶか。運用の話に降ります。失敗しろ、と言うと、起業して借金を抱えた話や、会社を辞めて無職になった話を想像する人がいます。そういう派手な失敗は必要ありません。むしろ、そういう失敗は回収コストが高すぎて、学習効率が悪い。

必要なのは、日常に埋め込まれた小さな失敗です。ただし、ここで条件を1つ追加します。小さい、かつ、不相応である必要があります。小さいだけなら、身の丈の内側の失敗です。小さいけれど自分には早い、という挑戦を選ぶ。

例えば、社内で誰も知らない技術を、1人で学んで発表する。先輩の仕事に「少しやらせてください」と筋を通した上で手を挙げる。書いたことのないジャンルの文章を公開する。数日で終わるサイズで、でも周囲が「早いのでは」と言う種類の挑戦。これが、失敗単価が安く、学習量が大きい。職場の力学や先輩の予定を無視して手を挙げると、別種の摩擦が発生するので、その辺の配慮は前提です。

学生なら、不相応のスケールが少し違います。私は、3つで十分だと思っています。まだ授業で習っていない領域の論文を、自分のゼミで発表する所属を越えた勉強会に1人で行って、自己紹介で自分の興味を言語化する初めてのOSS PRを送って、リジェクトされる。どれも、手を挙げる前に「自分にはまだ早いのでは」と感じる種類の挑戦です。だから効く。当たり前にやっている同級生がほとんどいないことを、1つでいいから先にやってください。

ただし、相手の時間を使う種類の挑戦——DMを送る、PRを出す、勉強会で質問する——は、相手への配慮を前提にしてください。一方的に押しつけるのではなく、短く、具体的に、相手が返しやすい形で。相手が返さなくても怒らない。返ってこない、も情報の1つです。この配慮は、不相応な挑戦の質を落とすものではなく、挑戦の一部です。

正直に告白すると、学生時代の私は、このどれもやっていませんでした。所属外の勉強会を見かけても、「場違いになりそう」と思って行かなかった。尊敬する書き手がいても、DMで議論を申し込む勇気がなかった。授業で習っていない領域の論文を、ゼミで発表するなんて考えたこともなかった。「まだ早い」という言葉に、素直に従っていた側の人間です。今振り返ると、その遠慮のぶんだけ、自分の輪郭が描き始められる時期が遅れた。だからこそ、学生のあなたにはやってほしい。私ができなかった分を、あなたがやってくれたら嬉しい。

これは以前書いた記事の「失敗を恐れない」とも重なります。小さな、継続的な失敗が、複利で効いてくる。たった一発の大きな挑戦で人生が変わることは、ほとんどない。変わるときは、小さな不相応の積み重ねがある閾値を超えたときです。

前にあげた7つの分類でいえば、この小さな不相応は、まず「無知が露呈した失敗」を呼び込みます。自分がまだ知らないことに手を出すから、知らなさが表に出る。そこで初めて、自分が何を知らなかったのかが見える。見えると学習が起きる。学習が起きると、次の無知が見える。この循環が、AIに代替されにくい自分を作る中心的な動力になります。向け先にも癖があります。今の私には、不相応な挑戦の向け先は大きく2つに見えています。まだ問題が構造化されていない現場か、これからエージェント時代の土台になる領域か。この話は、最後にもう一度まとめます。

ここで1つ警戒しておきたいバイアスがあります。サバイバーシップバイアスです。タイムラインに流れてくるのは、成功した挑戦、うまくいった転職、話題になったOSSばかり。失敗した挑戦は、見えないところに埋もれている。周囲と比べて「自分は挑戦が足りない」と焦るのは、たいていこのバイアスに引きずられている。成功の量ではなく、失敗の量で測る、という本記事の尺度は、このバイアスへの対抗でもあります。見えない失敗を数える。自分の失敗を数える。他人の成功と比較しない。これだけで、挑戦のペースはだいぶ落ち着きます。

コモディティ化した先に残るもの

「AIに代替されない」と前のセクションでサラッと書きましたが、この根拠を展開しておきます。AI時代に人間側に残る価値の話です。知識はAIによってコモディティ化していきます。どんな専門知識も、遅かれ早かれモデルに吸収され、誰でも呼び出せる形になる。ではコモディティ化した先に、何が価値を持つのか。

残るのは、キュレーション、信頼、文脈、鮮度、そして身体を通した暗黙知です。どれも、コピーできない。コピーできないものは、モデルに取り込まれにくい。取り込まれにくいものは、長期的に希少資源になる。AIは人間の知識経済を置き換えるのではなく、拡張していく。ただし、拡張された世界で価値を持つのは、コモディティ化できない側の能力です。

暗黙知は、言葉にならない判断の集合です。「これはまずい」「これはいける」「これは3年後にこうなる」。言葉にならないから、本にも書けない。学習データにも入らない。身体に残る失敗の経験だけが、暗黙知を作ります。つまり、AI時代の自分の価値は、言葉にならない経験の量に比例する。経験は、不相応な挑戦で失敗した数に比例する。ここで議論が一周します。

鮮度という軸も重要です。モデルの知識は、学習時点で止まります。今日の現場で、今日の顧客が、今日の困りごとを抱えている。その現場の1次情報は、人間にしか集められない。失敗を含めた1次情報を持ち続ける人間が、AI時代に代替されにくい立ち位置を保てます。永続ではない。次のモデルが半年後に追いついてくるかもしれない。それでも、鮮度がある限り、一時的な希少資源ではあり続けます。

螺旋階段を降りるな

暗黙知は失敗の数に比例する、と書きました。ただし、数え続けると、ある現象に出会います。失敗を続けていると、何度も同じ問題に戻ってくる。数年前にハマった罠に、また足を突っ込む。「成長していないのでは」と落ち込みたくなる。

これは螺旋階段の構造です。真上から見ると同じ場所にいる。横から見ると、高さが違う。前回は3日間沼に落ちた問題に、今回は3時間で気づける。前回は深夜に緊急対応した問題を、今回は予兆で察知できる。位置は同じでも、解像度が違う。

先にあげた7つの分類で言い換えると、これは失敗の読み方が変わっている状態です。同じ現象でも、最初は「実行が雑だった」で終わっていたものが、次には「解釈を外していた」と見えるようになる。さらに進むと、「そもそも問いの立て方がずれていた」「前提の置き方が甘かった」と読めるようになる。同じ地名に見えて、原因の解像度が上がっているから、対処できる範囲が広がっている。

失敗を怖がる人の多くは、螺旋階段の存在を知らない人です。一度失敗したら、二度と同じ失敗をしてはいけないと思っている。同じ失敗を3回しないと、輪郭は見えません。1回目は衝撃で何も考えられない。2回目は「またか」と驚く。3回目にようやく、「これは自分の癖だ」と気づく。

自分の例で言うと、技術選定で「チームの習熟度を軽視する」という同じ種類の失敗を、少なくとも3回やっています。1回目は「良い技術だから、皆そのうち慣れる」と思った。慣れませんでした。2回目は「今回はドキュメントを充実させれば大丈夫」と思った。ドキュメントを書き切れませんでした。3回目にようやく、「慣れるかどうかは個人の学習能力の問題ではなく、導入設計の問題だ」と気づいた。3回目以降は、技術選定の段階で「導入後3ヶ月間の運用コスト」を見積もるようになりました。外から見ると恥ずかしい失敗です。でも内側から見ると、これが螺旋階段の1段分です。3回回って、層が1つ上がった。

計画ではなく、好奇心でいい

螺旋階段は、計画の上に乗っていると見えなくなります。だから、計画ではなく別の動力が必要になる。夢を持たないと、代わりに何を動力にすればいいのか。答えは「好奇心」です。計画ではなく、試行と学習の循環でいい。

キャリアは設計できません。これは長く働いた人ほど痛感している事実です。5年前に予測できた自分の今と、実際の今は、たいてい大きくずれている。ずれた理由は、外部環境の変化もあれば、自分自身の興味の変遷もある。どちらも事前には予測できない。AIの登場で、このずれはさらに加速しました。

設計できないものを設計しようとすると、計画は硬直します。硬直した計画は、現実との差分を「失敗」として記録する。硬直するほど、失敗が増える。失敗が増えると、挑戦をやめる。挑戦をやめると、学習が止まる。

好奇心ベースの動き方は違います。現在地から、手を伸ばせば届かない範囲で、一番面白そうなものに手を出す。届かなかったら、そのぶん自分を引き上げる。うまくいかなかったらやめる。やめても別の何かに手を出す。この循環は、計画ほどエレガントではありません。エレガントではないけれど、破綻しない。

「AIに負けない」という問いは、この好奇心を殺します。防御のための学習は、好奇心の対極にあるからです。AI時代に伸びる人は、AIに怯えている人ではなく、AIを使って不相応に遊んでいる人です。長崎の学生たちに伝えたかったのは、たぶんこれです。

もう1つ、好奇心の深い層について触れます。好奇心の奥には、たぶん衝動があります。好奇心は表層で、衝動は地層です。好奇心は「面白そう」で動く。衝動は「なぜだかわからないが手が動く」で動く。両方が噛み合うと、挑戦は軽く、長く続きます。

衝動にとっての「計画」は、普通の計画とは別物です。普通の計画は、目標を先に決めて、そこに到達する手順を組む。衝動の計画は、逆です。衝動を日常に埋め込む環境を作るのが計画の役割になります。週のどこに、どのくらい、自分を衝動に委ねる時間を確保するか。その時間は、短くていい。毎日15分でも、週末の数時間でもいい。ただし、その時間を他の用事で潰さない。衝動に手を出す時間を確保することが、衝動を人生に実装する、という作業です。

ここで気をつけるべきことが1つあります。衝動は、強い感情として現れるとは限りません。「燃えるようなやる気」「情熱」「使命感」。こういう強い感情が湧いてこないから、自分には何もない、と結論する人がいます。違います。強い感情は、衝動に動かされた後の結果かもしれません。原因ではない。衝動は、淡々と手が動いてしまう形で現れることのほうが多い。朝、気づくと調べ物をしている。夜、気づくと本を開いている。理由を問われても答えられない。この淡々さこそが、衝動の姿です。強い感情を待っていると、衝動を見逃します。

夢があってもいい、でも点にしない

好奇心で動くなら、夢はどう扱えばいいか。タイトルの「夢は持たなくてもよい」の但し書きを最後に入れておきます。ここまで夢を持たない話をしてきましたが、正確には「夢を固定点にしない」ということです。夢があってもいい。ただし、それを唯一の目印にしない。目印はたくさんあってもいい。途中で変わってもいい。忘れてもいい。

夢を持つことの弊害は、夢そのものではなく、夢を特別扱いしすぎる文化にあります。小学校の「将来の夢」、就活の「ビジョン」、評価面談の「3年後のキャリア」。正面から「夢を持て」と命じられなくても、この形式が何度も出てくるだけで、人は気づくと「何か言える夢がないと遅れている」と感じる。設計した側の意図がどうであれ、結果として、夢を持っていない人が「持てていない側」に自分を置いてしまう場面が多い。長崎の学生たちが「AIに負けない人材」という抽象に惹きつけられてしまうのも、この自己調整の延長線上にあります。

夢は持ってもいい。ただし、「今の夢」くらいの軽さで持つ。来月変わっているかもしれないし、来年笑い話になっているかもしれない。そのくらいの仮置きで持つ。仮置きだから、固執せずに失敗できる。固執すると失敗できなくなる。失敗できなくなると学習が止まる。

夢の代わりに、もう1つ、目印にできそうなものがあります。さっき書いた衝動の、もっと地味な現れ方です。言い換えると、気分の下にある動力です。

夢は言葉にできます——「こうなりたい」「これをしたい」。モチベーションも、気分の上下として観測できる——「今日はやる気がある」「今日は出ない」。でもその下に、もう1層ある。気分とは無関係に手が動いてしまう層です。気分が落ちていても、疲れていても、それでも手を出してしまうものがある。理由を聞かれても答えられない。「なぜか、手が動く」としか言えない。この静かな衝動が、自分にとっての最も長持ちする動力になります。

この衝動は、「燃えるようなやる気」として現れるとは限りません。むしろ、淡々と、静かに現れます。朝起きて、気づくと調べ物をしている。夜、気づくと関連の本を開いている。週末、特に予定がない時間に、気づくと同じ領域に手が伸びている。熱量としてはささやかです。だから多くの人が見逃す。「情熱がないからやれていない」と思っている人の多くは、情熱を待っているのではなく、ささやかな手の動きに気づいていないだけです。

だから見つけ方は、大きな感情を待つことではなく、日常のログを観察することになります。気づいたら何時間も使っているもの。誰にも頼まれていないのにやっているもの。誰にも見せる予定のないのに続けているもの。このログが、静かな衝動の輪郭です。派手に光るものではなく、静かに続いているものを探す。

では、なぜこれが重要か。それが、挑戦を長期で支えるからです。モチベーションだけで動く挑戦は、気分が落ちた日に止まります。こういう静かな衝動で動く挑戦は、気分が落ちた日も動きます。5年、10年のスパンで自分を支えられるのは、後者だけです。学生のあなたがもし「情熱がない」と感じているなら、気にしないでください。燃えるような感情は、あっても邪魔になる日がある。ないなら、その下の淡々とした動きを探す。そっちのほうが、実は強い。

挑戦の選び方にも、1つ基準が加わります。少し面白がれるものを選ぶ。完全に楽しいものではなく、真剣に取り組む中で、ふとしたとき面白みを感じるもの。面白みがないと、実験は続かない。続かないと、気分の下にある動力にはたどり着かない。強い楽しさではなく、小さな面白みを探す。これが、長距離走の燃料になります。

挑戦した事実で自分を測る

冒頭の長崎での場面に戻ります。学校でのイベントで、学生たちは真剣に「AIに負けない人材になるには」と聞いてきた。うまく答えられなかった。イベントが終わってそのまま、夜、お酒も飲まずにこれを書いている。今ならこう答えます。

AIに勝とうとするな。勝ち負けの土俵が、そもそも違う。

まず、その見取り図を疑え。お前たちが最初から「不利な側」だと思い込まされている、その前提が怪しい。エンジニア1人あたりの生産性が2倍、場合によっては10倍になれば、それまで経済的に成立しなかったものが動き出す。市場は縮まるより、たぶん膨張する。考えるべきは、「負けない場所」ではなく、自分がどこに立つかだ。

立つ場所はいくらでもある。少なくとも、今の私に見えているのは2つだ。

1つ目、問題がまだ構造化されていない現場。法務、会計、監査、組織運営、非定型の業務プロセスみたいな、要件がきれいに書かれていない場所だ。現場の文脈を人間が整理して、エージェントが動ける形に落とす仕事は、まだしばらく人間の側に残る。

2つ目、エージェント時代に欠けているインフラ。支払い、検索、セキュリティ、アイデンティティみたいな、AIが走る前に道路が要る場所だ。誰もまだ完成させていない。だから、まだ場所がある。

ただ、場所の話だけでは足りない。訓練の方向も変えろ。コードを速く書く訓練は、もう意味が薄い。代わりに、センスを訓練しろ。何を作るか、何を作らないか、この設計は半年後に腐るか、このコードは人間が読めるまま残るか。そういう判断の精度を上げろ。

それと、頭の中にある判断を外に書き出す訓練をしろ。AIに渡すためでもあるし、自分が何を見ているのかを自分で掴むためでもある。

今月、不相応な挑戦を1つ始めろ。3年早い課題でいい。1ヶ月やって、うまくいっても、惨めに失敗してもいい。結果は問わない。やった、という事実だけ残せ。必ず記録しろ。数えないと、たぶん忘れる。

ここを勘違いするな。お前が数えるのは、成功の数でも、失敗の数でもない。挑戦した事実の数だ。5年後、10年後に振り返ったとき、今月の成功も失敗も、小さすぎて形が見えなくなる。残るのは、挑戦の山だけだ。

その上にしか積まれないものがある。今日の現場の1次情報と、「この人が作ったなら確かだ」という信頼だ。どちらも一朝一夕ではできない。だから3年くらいは続けろ。「AIに負けないか」という問いは、そのころには少し形を失っている。

——と、今の私は答える。3年後、また違うことを言っているかもしれない。それでも、昨日の夜、この答えが、一番誠実な形です。

自分を測るのは、成果ではなく、挑戦した事実の総量です。不相応な挑戦を、何回したか。結果の成否ではなく、手を挙げた回数を数える。これは他人の成功と単純比較しにくい指標です。だから、AIが出してくる正解の速さとは別軸で、自分を支えられる。AIが出してくる正解と、自分が挑戦した事実は、違う種類の資産です。前者は参照できる。後者は、やった本人の中にしか残らない。そういうものだけが、あとで自分の輪郭になります。

夢がない、と悩む時間は、だいたい動いていない時間です。動かないから、自分の輪郭が見えない。輪郭が見えないから、夢がないように感じる。順序が逆です。夢があるから動くのではなく、動いて失敗するから、自分がわかる。わかった後に、仮の目印が立つ。立った目印を、人はあとから「夢」と呼ぶ。

夢は持たなくてもよい。けど、挑戦はしろ。その挑戦が失敗で終わることを恐れるな。自分で選んで、自分に不相応で、自分で責任を取る、その挑戦の回数を数えろ。派手な失敗はいらない。月1件の不相応でいい。結果の成否は問わない。3年続けろ。そのころには、「AIに負けない」という問いは、問いの形を失っている。「夢を持っていないとまずい」という焦りも、同じように形を失っている。どちらも、外の物差しを自分で抱え込んでいたからだ。残っているのは、挑戦した事実の総量と、そこから浮かび上がった自分の輪郭、つまり内側の物差しだけです。

私自身、この処方を自分に課している期間は、たぶん8年ほどです。8年やってきて、昨日、長崎の学生の問いに即答できなかった。処方は完成していません。完成形を持ってから話していたら、一生話せない。昨日までの8年と、今後の数十年を、同じ処方でもう少し回します。それでも輪郭は、8年前より濃くなっている。たぶん。この「たぶん」は、逃げではなく、私にとっての誠実さの形です。

最後に1つ。正解は、事前には存在しない。正解は、作るものだ。「正解がない時代」とよく言われますが、私の実感では違います。正解は、あります。ただし1つではなく、無数にある。そして、そのどれもが、最初から「これが正解だ」と看板を出して待っているわけではない。誰かが選んで、歩いて、振り返って名前をつけた道だけが、後付けで「正解」と呼ばれる。つまり、正解は見つけるものではなく、作るものです。

作り方は単純です。生データ(違和感、嫌い、退屈、なぜか手が動く)を拾う。仮の仮説に翻訳する。動かす。結果で仮説を更新する。これをただ繰り返す。組織論でいうsensemakingも、かなり近いことを言っています。手掛かりを拾い、仮の筋を作り、その筋を足場にまた動く。派手な思考法ではありません。淡々とした、身体と頭の往復作業です。この往復の中でしか、自分にとっての正解は立ち上がってきません。

不相応な挑戦を1つ選んで、失敗した。その選択が正しかったかどうかは、事前にも事後にも決まらない。決まるのは、その失敗の上に次の挑戦をどう積むか、あなたが仮説を立て直すかどうかです。夢も、キャリアも、同じ構造です。最初から正解がある道を選ぼうとするから、動けなくなる。選んで、失敗して、その失敗を手がかりに次を選ぶ。これを繰り返して、後から振り返ったときに、それが自分の道になっている。正解は、その道の名前です。道を歩く前には、名前はついていません。

書き終わっても、答えは出ていない。 書いたからといって、明日の学生たちの不安が消えるわけでもない。 それでも、書いた。

昨日、真剣な目で私に問いを渡してくれた学生たちへ。すぐに答えられなくて、ごめんなさい、と書こうとして、手が止まった。「ごめんなさい」の一言で片づくほど、あの問いは軽くない。答えは、10年以上かけて私が見つけた限りのものしかない。「限りのもの」があなたたちに届くかどうかは、私には分からない。分からないまま、ここに置いておく。

明日、何から始めるか迷ったら、1つだけ選んでほしい。今の自分に3年早い挑戦を、1つ。研究室の論文、1人での勉強会、知らないエンジニアへのDM、初めてのOSS PR。どれでもいい。1ヶ月やって、惨めに失敗する。失敗した後に、何が残ったかを記録する。それを12ヶ月。私もやっている。8年やって、完成していない。完成する日は、たぶん来ない。来ないまま、挑戦を積み続ける気がする。あなたも、そこに加わってくれたら、と思う。思うが、強制ではない。選ぶのはあなただ。

不安は、悪いものではない。不安を感じるのは、ちゃんと未来を見ている証拠だ。不安を刺激で埋めず、言葉にならない形で抱え続けられる人は、数年後、自分の輪郭をちゃんと持っている気がする。気がするだけ、かもしれない。それでも今夜の私は、そう書いておきたいのだと思う。

ただし、不安で眠れない夜が長く続くなら、そこから動けなくなる前に、信頼できる誰かに話してほしい。友人でも家族でも、大学の学生相談窓口でも、どこでもいい。抱え続けるのと、抱え込んで潰れるのは、別の話だ。後者を引き受けてまで、この記事の助言を守る必要はない。

挑戦しろ。不相応に挑戦しろ。成否は問うな。挑戦した事実を数えろ。数えた事実の上に、次の挑戦を積め。

参考資料